日々春に向かっていると感じる。
スーパーに行けば菜の花やその他春野菜が出てきているし、春を感じずにはいられない。
私自身もうこの冬の寒さにはうんざりしているが、冬しか食べられないたらの白子とか魚卵系が魚屋から姿を消すことを考えただけで、とても寂しい気持ちになる。特に今年は白子のムニエルにはまり、一時期は毎日食べていたのでプリン体の過剰摂取を気にしていた。
バルサミコソースとの相性は抜群。
と言う事で、もうすぐ確定申告業務も終わるし再びこの会計事務所にも平穏な日々が訪れるだろうと思っている。この確定申告の忙しい時期の雰囲気を感じその中で多少まかされる仕事も多数あったので色々と勉強になった。こうしてみると、多くの人が「フリーランス」で生きているのだと実感させられる。給与取得者も良いけど早く個人事業やその現職の仕事から離れた分野で色々とやってみたいと常に感じる。まあ肝心のやるべき事を見つけるのが一番最初だね。
以前読み終わったThe shadow of the sunの著者Ryszard Kapuscinskiの本を最近立て続けに読んでいる。手に入る限りの彼の作品を注文してしまったので、今は完全に彼の世界観の中にどっぷりつってしまっている。
Travels with Herodotus は彼のジャーナリストとしての原点を見ることが出来る気がして読んで良かったと思う。
ポーランドに生まれて貧困を経験し、また東西冷戦全盛の時に閉鎖的な社会で青春を過ごした彼にとっては、「他者」「他文化」というものへの興味関心が原動力だったのだとわかる。最初にインドに行って始めて他の国、人間と出会いまた言語の違いや文化の違いなど全てが新鮮で刺激的だったようだ。当時まだ英語が得意じゃない中で色々変なことにも出くわしながら、一人でいるときは英語の勉強のために色々と本を読み出すわけだけど、会社の上司がくれたヘロドトスの「歴史」を時間を見つけては読み始める。
要するにこの本は、著者がジャーナリストとして様々なクーデターや内戦をレポートしながら世界各地を旅する自身と、旅をして色々な人間に会い、他文化を経験したヘロドトスを重ね合わせながら対話するという構成で、彼のジャーナリストとしてのスタイルや哲学的なものの基盤になっていると感じる。
彼が所謂途上国で多くの貧困を目にしても、それほどショックを受けたりせず、その中で真実を模索しようと出来たのも、彼の生い立ちが関係していると思う。彼の戦争中靴を買うお金がなくて石鹸を売ってそのお金を捻出しようとしたエピソードがなける。それまで寒い中でも裸足で生活せざるを得なかった自分の幼少の思い出と、アフリカやインドであった裸足の子供たち、人々を重ね合わせているシーンがあって、このような原体験が他者とオープンに対話できた彼の性格を支えていたように感じる。
自分にとって他者とは何物であるのかということがこの著作の中にたくさん出てくる。他者を通して自分と言うものを知る、というのが彼の作品に徹底して見られる特徴であると思う。
The Otherという彼の講演集を読んだ。短いけど是を読むと多くの作品(まだ3冊しか読んでない。。。)の色々なシーンが良く理解できる。
エマニュエル・レビナスの思想哲学が彼の他者への理解、また見方を裏付けているのだと感じる。
西洋にとって他者とは伝統的にEastであり、またそれを知り利益を得ようとしたのが西洋なわけだけど、又同時に他者を知ろうという積極的な態度、知識体系を作ったのも西洋であるから一概に悪いとも言えないのかもしれない。しかしながら、奴隷貿易や植民地支配などやはりほとんど消すことの出来ない影響を残したのは事実であるからなんとも言えない。
著者の立場は私からすると面白い。Westの人間であるのだけどポーランドと言う歴史に翻弄される場所で育った彼からすると、簡単に自己を西側の人間であるというだけのアイデンティティではないのだと思う。だから、アフリカやラテンアメリカ、アジアなどでで彼が他者に出会うことがまた違った意味合いを持っていたのだと感じられる。
人類学の発展はその「他者」への理解がその根幹であるし、彼もそれを語っている。ポーランド人の人類学者の言葉を引用して[to judge, we need to be there]、実際に現場に行って他者の中に交わる事の重要性を指摘している。それは彼の基本的なジャーナリストとしてのスタンスであるし、それがある意味彼の思想哲学の根本であったような気がしてならない。
最近は専らアフリカ強化月間が続いているが色々ともっと読んでいきたいと思っている。
それにしてもつかれた。明日は寝坊するぞ、、、。
Friday, 14 March 2014
Wednesday, 19 February 2014
大雪の日々の後は、、、
最近の大雪は本当にすごかった。東京でもあんなに雪が降ると私なんかは嬉しくなってしまうけど、山梨など普段あまり大雪に見舞われない地域の被害は甚大である。友人のニュージーランド人が山梨の白州にすんでいるが、とても車が出せる状況ではないらしい。早く日常に戻ってほしいと思う。
最後の記事が10月あたりだと記憶しているからだいぶご無沙汰になってしまった。色々あったけどなんとなく書く事をわすれていたし、あわただしく過ごしていた。
12月に某アフリカの国に行ってからというもの、アフリカの本を読んだり料理を作ったりして結構楽しんでいる。先日は友人を招いて「パン・アジア、アフリカ料理研究会」のは初部会を開いたが、かなり盛況だった。
作ったものは、アフリカからJollof rice
Doro wat
Shiro。某国から密輸したシロパウダーを使って作った。
インドから Papdi Chaat。実際パブディ、チャットニーを全部自分で作ったからマジで時間がかかった。
中東からはTabhle でラテンアメリカからはSadine Ceviceをメニューとした。
意外にも好評で全部なくなった。それも神社神道研究会のメンバーが大体男だって言うのもあるかもしれないけど。
アフリカのレシピは色々参考にさせてもらった。こういう日本にない料理を作るとき本当にインターネットのありがたさを実感する。なんだって調べられる。けど材料が手に入るかは別問題。
アフリカに関してはこの本が参考になった。
まあそこまで色々細かく書いてないけど、エチオピアの料理が他のアフリカ料理と一線を画していると言う事は理解できる。というのもやはり独立を保ちその文化形成に食文化が欠かせなかったが故にエチオピア料理がある意味他の大陸でも市民権を得ていると言うことだと思う。
ちなみに脱線して、
を読んだ。色々おぼろげながらではあるがアフリカのイメージが少しずつ頭の中に構築されていく感じがする。
今は、
を読んでいるが、本当にすばらしいと思う。この本は知人が三年前くらいに読んでいたので気になってはいたが、今色々理解できることもあるしいいタイミングで読んでいると思う。著者は詩も書くほどなので文章は至って詩的、文学的である。彼の本は3冊頼んでいるので楽しみだ!
私の趣味は完全に料理になってしまったようだ。
昨夜はカリフラワーを青果売り場で見つけ購入。自宅に帰ってゴビパコラgobi pakoraを作った。そしてなぜか興が上じてチャナダル(ヒヨコマメカレー)も作ってしまった。
仕事の後にたまねぎを切り刻む快感。もしかしたら是に尽きるのかもしれない。
最後の記事が10月あたりだと記憶しているからだいぶご無沙汰になってしまった。色々あったけどなんとなく書く事をわすれていたし、あわただしく過ごしていた。
12月に某アフリカの国に行ってからというもの、アフリカの本を読んだり料理を作ったりして結構楽しんでいる。先日は友人を招いて「パン・アジア、アフリカ料理研究会」のは初部会を開いたが、かなり盛況だった。
作ったものは、アフリカからJollof rice
Doro wat
Shiro。某国から密輸したシロパウダーを使って作った。
インドから Papdi Chaat。実際パブディ、チャットニーを全部自分で作ったからマジで時間がかかった。
中東からはTabhle でラテンアメリカからはSadine Ceviceをメニューとした。
意外にも好評で全部なくなった。それも神社神道研究会のメンバーが大体男だって言うのもあるかもしれないけど。
アフリカのレシピは色々参考にさせてもらった。こういう日本にない料理を作るとき本当にインターネットのありがたさを実感する。なんだって調べられる。けど材料が手に入るかは別問題。
アフリカに関してはこの本が参考になった。
まあそこまで色々細かく書いてないけど、エチオピアの料理が他のアフリカ料理と一線を画していると言う事は理解できる。というのもやはり独立を保ちその文化形成に食文化が欠かせなかったが故にエチオピア料理がある意味他の大陸でも市民権を得ていると言うことだと思う。
ちなみに脱線して、
を読んだ。色々おぼろげながらではあるがアフリカのイメージが少しずつ頭の中に構築されていく感じがする。
今は、
を読んでいるが、本当にすばらしいと思う。この本は知人が三年前くらいに読んでいたので気になってはいたが、今色々理解できることもあるしいいタイミングで読んでいると思う。著者は詩も書くほどなので文章は至って詩的、文学的である。彼の本は3冊頼んでいるので楽しみだ!
私の趣味は完全に料理になってしまったようだ。
昨夜はカリフラワーを青果売り場で見つけ購入。自宅に帰ってゴビパコラgobi pakoraを作った。そしてなぜか興が上じてチャナダル(ヒヨコマメカレー)も作ってしまった。
仕事の後にたまねぎを切り刻む快感。もしかしたら是に尽きるのかもしれない。
Tuesday, 8 October 2013
A Trip to Atami and so on
先週末は兄の結婚式に参加するために熱海に行った。
私はここで天下取りを誓ったのです(収入アップ等かなり現実的な祈願をしました、、、。)
そこにはモダンな美術館が。
熱海から帰ってきてからちょうど読み終えた本が是。Down And Out In Padstow And London
値段も安かったし、軽い感じで何か読みたかったから手に取ったのだけど、大変笑わせてもらった。と言うのも、昨今のイギリスにおける「フーディー」(Foodie)文化を良く描写しており、かの国でテレビ等のメディアに触れた事のある人間であれば大変面白く読めると思う。
ジャーナリストの主人公がその職をやめて料理人を志して色々なところで修行し、挫折したりするそのストーリーは、グルメブームの中でヤキモキしている人間にとって非常に痛快である。
要するに、多くの人が(特にイギリス等)料理人に対して非常に憧れを持っているわけだけど、実際に主人公が経験する事すべてがその理想、イメージからかけ離れていて、彼はその中で現在跋扈するこのグルメ文化がいったい何なのであるか自問自答する。
こうしたグルメ文化を牽引したのはやはりBBCのMasterchefシリーズだと感じる。その本の中でも散々言われているが、メディアのトレンド形成における役割である。正直日本のメディアにはもうそこまでの力は感じないが、未だにイギリスのメディアはそうした流行を生み出す大きな役割を産業界で担っているガゆえにその重要性、人気と言うのも高いのではないか。
ちなみに英語圏ではCeleblity Chefという人々が存在し、ゴードン・ラムゼー等はその代表格。私は彼がホストとなっているアメリカ版マスターシェフを見たが、結構面白くてはまってしまった。(面白いと言うのは色々めちゃくちゃな事がまかり通っていると言う意味で。)
こうしたセレブシェフという概念をはじめて体現した人はKieth Floydだと言われている。BBCで長い間旅、料理番組を担当していた人で、私は彼が飲みながら楽しそうに、また時に失敗しながらその土地の料理を作っているシーンが好きだ。残念ながら彼は2009年に他界しているけど、彼の人生と言うのは本当に山あり谷あり、成功者として多くの苦悩を抱えていたようで、昔Channel4 のドキュメンタリーで死の2ヶ月前にとられた彼を見た事があるがそうしたアップダウンの激しい人生を生きた事が伺えた。
これはスペイン、ガリシア地方を旅したエピソード。
ちなみにその本に戻ると、主人公がHeston Blumenthalのレストランで修行する事になるのだけど、色々ミシュラン三ツ星のレストランの舞台裏が見れて面白い。
ヘストンは実際独学で料理を学んでおり、自分のレストランを持つまでは一度一週間だけプロフェッショナルキッチンで働いた事があるだけらしい。イギリスが生んだ天才と言われているようだけど、、、。
彼はビクトリア朝等のレシピにインスピレーションを受けながら料理をプロデュースしており、最近はそれがとても評価されている。この記事に詳細が乗っている。
ロンドンにいるときは私も完全にその「フーディー」の一人だったが最近は現在のこうした世界的流行であるフードムーブメント全体に興味がある。まあおいしいものは大好きなんですけど!
最初は泊りがけの結婚式旅行というアイディアにあまり乗り気じゃなかった。わざわざどうして遠くまで出かけて神前式をするのかちょっとわかりかねるところがあったが、結果的に楽しい時間を過ごさせてもらって本当に感謝している。
結婚式は熱海、来宮神社で行われた。ここは国の天然記念物に指定されている大楠が有名で、なんとも言えないひなびた感じがとても良かった。
最近は「パワースポット」としてその大楠が有名らしくて観光客を呼んでいるらしい。確か神々しいその大楠にはパワーをもらえる気がするし、大楠の他にも様々な巨木が境内にたくさんあり、とても良い雰囲気だった。
兄もついに結婚。奥さんは本当にいい人で兄も本当に幸せそうで私もうれしい。色々今回の結婚式&家族旅行の計画準備で大変だったと思う。まあ一生に何回もあることじゃないから、、、I hope!
翌日は家族総出で伊豆山神社へ参拝。こちらは北条政子と源頼朝が契りを結んだと言われる大変歴史の深い神社で多くの人の信仰を集めているとのこと。源頼朝が源家再興の祈願をこの神社でしたと言われており、色々と歴史のロマンを感じることができる場所。それにロケ-ションが最高で、熱海の海を一望する事ができる境内には、頼朝と政子が座ったと言われている腰掛がありなんともロマンチック。ここで天下取りを誓ったのですね。頼朝カッコイイ。
約900段近い階段。でも車で頂上までいけるから安心です。昔の人は随分健脚だったのですね。
私はここで天下取りを誓ったのです(収入アップ等かなり現実的な祈願をしました、、、。)
その後はMOA美術館へ。
怪しいエスカレーターを抜けると、、、、。
そこにはモダンな美術館が。
この美術館の名前は Mokichi Okada Associationの頭文字をとったもので、岡田茂吉が芸術を通して人間性、文化を高めていけるようにとの理想を元に作られたものであるらしい。
岡田茂吉さんと言えば世界救世教の開祖であったわけだけど、元々は東京芸大出身で芸術を非常に愛した人であるようだ。芸術の他にも自然農法等にも傾倒し、世界救世教はそうしたことにも力をいれているらしい。
肝心の美術館であるけど、展示品は主に東洋美術が中心で現代日本アートや浮世絵、仏像など多岐にわたる。黄金の茶室など俗物っぽいものもあるけど、実際結構楽しめる美術館だと感じた。
尾形光琳の自宅を移築したものなど、彼がそうした芸術家に対して非常なる尊敬の念を持っていた事が強く感じられた。
美術館を後にし、最後は刺身定食で旅を締めくくった。
熱海から帰ってきてからちょうど読み終えた本が是。Down And Out In Padstow And London
値段も安かったし、軽い感じで何か読みたかったから手に取ったのだけど、大変笑わせてもらった。と言うのも、昨今のイギリスにおける「フーディー」(Foodie)文化を良く描写しており、かの国でテレビ等のメディアに触れた事のある人間であれば大変面白く読めると思う。
ジャーナリストの主人公がその職をやめて料理人を志して色々なところで修行し、挫折したりするそのストーリーは、グルメブームの中でヤキモキしている人間にとって非常に痛快である。
要するに、多くの人が(特にイギリス等)料理人に対して非常に憧れを持っているわけだけど、実際に主人公が経験する事すべてがその理想、イメージからかけ離れていて、彼はその中で現在跋扈するこのグルメ文化がいったい何なのであるか自問自答する。
こうしたグルメ文化を牽引したのはやはりBBCのMasterchefシリーズだと感じる。その本の中でも散々言われているが、メディアのトレンド形成における役割である。正直日本のメディアにはもうそこまでの力は感じないが、未だにイギリスのメディアはそうした流行を生み出す大きな役割を産業界で担っているガゆえにその重要性、人気と言うのも高いのではないか。
ちなみに英語圏ではCeleblity Chefという人々が存在し、ゴードン・ラムゼー等はその代表格。私は彼がホストとなっているアメリカ版マスターシェフを見たが、結構面白くてはまってしまった。(面白いと言うのは色々めちゃくちゃな事がまかり通っていると言う意味で。)
こうしたセレブシェフという概念をはじめて体現した人はKieth Floydだと言われている。BBCで長い間旅、料理番組を担当していた人で、私は彼が飲みながら楽しそうに、また時に失敗しながらその土地の料理を作っているシーンが好きだ。残念ながら彼は2009年に他界しているけど、彼の人生と言うのは本当に山あり谷あり、成功者として多くの苦悩を抱えていたようで、昔Channel4 のドキュメンタリーで死の2ヶ月前にとられた彼を見た事があるがそうしたアップダウンの激しい人生を生きた事が伺えた。
これはスペイン、ガリシア地方を旅したエピソード。
ちなみにその本に戻ると、主人公がHeston Blumenthalのレストランで修行する事になるのだけど、色々ミシュラン三ツ星のレストランの舞台裏が見れて面白い。
ヘストンは実際独学で料理を学んでおり、自分のレストランを持つまでは一度一週間だけプロフェッショナルキッチンで働いた事があるだけらしい。イギリスが生んだ天才と言われているようだけど、、、。
彼はビクトリア朝等のレシピにインスピレーションを受けながら料理をプロデュースしており、最近はそれがとても評価されている。この記事に詳細が乗っている。
ロンドンにいるときは私も完全にその「フーディー」の一人だったが最近は現在のこうした世界的流行であるフードムーブメント全体に興味がある。まあおいしいものは大好きなんですけど!
Thursday, 3 October 2013
秋の昼下がりに
天気は徐々に秋らしきなって行く。いたるところで秋を感じるこの日常と言うのはすばらしいと思うし、こうした季節感を尊ぶという事は日本人に内在的にあるものなのかもしれない。先月の満月はあまりに美しかったし、帰宅途中茂みから聞こえてくる鈴虫の声も秋を感じさせてならない。スーパーに行けば私の代好きな柿が売っているし、栗も徐々に目にするようになった。食べ物から季節を感じると言うのはとても風情があって素敵だし、何よりも舌、胃袋ともに季節を感じ物理的に満足する事は大切なことだと思う。
季節感と言えば、身近に感じるところでやはり食べ物があると思うけど、今日読み終わった本は私がロンドン在住中から抱いていた疑問にたいして多く答えるものであったので非常に勉強になった。French Beans and Food Scares: Culture and Commerce in an Anxious Ageは現代の食料流通をめぐるある種文化比較を特定の地域、文化圏、また食料品に的を絞って考察している本で、私にとり非常に深く現代の食品流通がいかに文化的、歴史的な要素によって規定付けられているかと言う事を知る意味でためになった。
筆者は帝国主義時代における二大勢力、フランス、イギリスの現代のコマースのあり方がどのように違った発展を遂げて今の消費主義社会に答えてているかと言う事を論じている。
フランスの国家形成が強く地方都市、農民の発展に重点が置かれていたという歴史的事実と、それが旧植民地アフリカ諸国における経済発展を主に農民を抱きこむ形で行こなわれたという事に寄与したと言う事実は非常に重要なポイントであると思う。そうした、農民、ある意味プロフェッショナルな技術、知識を持つものに対するフランス文化の尊敬や自負心と言うもの自体が(metis)、対人間性を重視したコモディティネットワークを可能にしたと言うことであるらしい。未だにフランスのマーケットではそいうした特定の食材に対する深い知識を持つ店主などが多くの尊敬を集めるそうだ。こうしたpeasant-based rural developmentそのものが、フランスの食文化やある種「匠」の文化を支える根本にあると言うことである。
そうした伝統が今のフランスにおける「エキゾチックな農産物」の流通ネットワークに強く見られるとの事。たとえば旧植民地であるブルキナファソなどはフランスに良質なインゲン豆を輸入しているとの事だが、その形態はある種old-fashioned commodity networkである側面が強く、人間関係や信頼と言ったものが生産から輸送にいたるまで大きな意味を持っている。今ではスーパーなども参戦しそうした側面が薄れてきてはいるものの、ひとつフランス語圏の食糧生産や物流を理解する上で大切なスコープとなる。こういる地方、農民の発展が国家形成の中で重要な意味を持ったと言うことは、直接的に旧植民地生産国におけるSmallholdersの活用と言うのものに関係しているということらしい。歴史的に、フランスにとり小規模農家を現代コモディティネットワークに取り込む事は比較的容易だったと言うことなのである。
面白いのはイギリス、アングロサクソン文化圏のコモディティネットワークのあり方である。この筆者の論は私のフェアトレードやオーガニック運動への疑問に多くの答えを与えてくれるものだと思う。
簡単に要約すると、Anglophoneの文化圏では` good practices'` codes of conducts'といったものが持つ意味が大きく、そうした規則、監査が今のコマースを支えている。こうした伝統はcorporate paternalism (instituted by the colonial-era mining companies)に依拠すると言うのであり、こうした規則や定期的な監査というものが実際遠隔統治(govern at a distance)を可能にしていると言うことらしい。
面白い事にこうした規則や日常的なチェック、監査というものが徹底されればされるほど、対人間の付き合いや信頼性と言うものが失われて行く。このようなinternalization of supermarket surveillanceが tyranny of transparencyを産み、より非人間的なコマースと言うのが発展していくと言うことであり、この文脈の中で「サプライチェーンマネジメント(SCM)」という学問領域も発展してきた。要するに、いかに供給ラインの中でリスク、コストを最小化するかと言う点に力点がおかれているのであって、そこにフランスのネットワーク構築と大きな違いを見るのである。
なるほど。ではイギリスにおけるフェアトレード、オーガニック、倫理的ショッピングとはいったいなんなのだろう。フェアトレードに関してはもともとキリスト教の構造的不平等(structural inequality)を是正するところから始まっているようで,イギリスで最も力をもつキリスト教系NGO Christian Aidが政府、スーパーマーケットなどの小売業者に働きかけたところから一気に広まるようになった。またイギリスメディアがこうした国民の意識の形成において大きな役割を担っており、そうしたメディアを抱き込んでのキャンペーンが「フェアトレード」などのethical shoppingをメインストリームに押し上げる事に大きく貢献したのである。
結局オーガニック認証にかんしてももともとSoil associationがはじめたある種「認証ビジネス」の構造と言うのがフェアトレードなどにも影響しているのであって、こうした認証組織は政府や大手小売業者の利権と強くその結びつきを持っているのであり、要するに冨とパワーの問題に収斂してしまうと言うことがあるだろう。実際そういった倫理的、環境的な基準と言うのが、旧植民地国の生産者を新たな形で統治する事、強国の要求を押し付ける事につながっていると言える。たとえばChild laborに関する疑問も、その是非が本当の意味で議論されているとは言えない。果たして児童労働の禁止が子供たちのより良い生活、教育へのアクセスを可能にしえいると言えるだろうか?単なる先進国の驕りや偽善に終始していないだろうか?
イギリス人のこのFoodie cultureというものは結局こうしたイギリスの旧植民地国とのコモディティネットワークの中で形成され、維持されているに過ぎないのであると思う。だからどことなく地に足の付いていない印象を他の国の人間には与えるような気がスル。
又、こうしたアングロサクソンネットワークにおいては、小規模農家というものが見過ごされがちであるし、もともとconsolidationが効率化を高めると言う思想がある中においてはsmallholder schemesというものがなじむとは到底言いがたいのである。こうしたアングロサクソン国における地方発展と言うのは本当の意味で可能であるのか自分は本当に疑問を持っている。
今考えてみればイギリスにいたとき、常に食べ物番組、ドキュメンタリーを目にしていたと思う。そうした番組の数々は要するに消費をあおるものでしかなく、いかにイギリスメディアが経済界とつながっているかを知るにいたる。BBCなんかも、結局「食を通じたライフスタイルの提案」というようなことを積極的に推し進めてるように思えるし、書籍の出版やセレブリティシェフとタイアップした商品などをスーパーで良く目にした。すべてはこうしたイギリスのコモディティネットワークと言う中である意味独自の発展を遂げているように私には写る。
アフリカはそういった点において本当の意味で強国のイデオロギーのかなで大きな犠牲を強いられていると思う。EUとアメリカ、またイギリスなど、たとえば、遺伝子組み換えの問題(transatlantic GM battle in Africa)でも国際政治の中でがんじがらめにさせられているようで胸が傷む。しかしながら、こうした開発学的問題と言うのは植民地主義の歴史やその遺産をいかに精算するかという事が大きなボトルネックになっている気がしてならない。歴史は変えられない、では我々に何ができるのだろう?
この手の本は他にもあって、たとえば
The Noodle Narratives: The Global Rise of an Industrial Food into the Twenty-First Centuryや
Cheap Meat: Flap Food Nations in the Pacific Islandsが近いものがあると思う。まあ現代においてはフードスタディは結構はやりだからあれだけど、なかなか面白い論を言える人がいない気がスル。なんとなくいつもネオリベラリズムや植民地主義の歴史、またネオコロニアリズムにかんして言っているような気がしてならない。それ言っちゃおしまいよー的な感じがしないでもないんだけど。。。。
そういえば最近読んで色々と納得したころがあったのはこの本の存在を知ってから.Taken: Exposing Sex Trafficking and Slavery in India
こういう現実があると言うことははやり同じ女性としては考えさせられること多い。そんな中で、THE QUEENS DAUGHTERS IN INDIAという1892年にかかれた文章を読んだのだけれど、ちょっと色々ショックを受けてしまった。こうした現在にも続く人身売買、売春などの事象はイギリス植民地統治時代より構造的に形成されたものであると言うことはある種衝撃で、軍の士気を維持するために現地の女性を調達するということを組織的に実行したと言う事実は、植民地政策を知る上で大切なことだと思ってしまった。まあ要するに性病の蔓延をコントロールするために公衆衛生に関する法律を整備したりしたということは非常に興味深い。まだ途中までしか読んでないけどこれもイギリス植民地主義の暗部を知る意味でも私にとって勉強になる。
こうして考えてみると、コモディティネットワークでも現代の諸問題もやはり18,19世紀に端を発しているケースが多いように感じる。
もっと色々書こうと思ったけど、とりあえずこの辺で、、、、、。
季節感と言えば、身近に感じるところでやはり食べ物があると思うけど、今日読み終わった本は私がロンドン在住中から抱いていた疑問にたいして多く答えるものであったので非常に勉強になった。French Beans and Food Scares: Culture and Commerce in an Anxious Ageは現代の食料流通をめぐるある種文化比較を特定の地域、文化圏、また食料品に的を絞って考察している本で、私にとり非常に深く現代の食品流通がいかに文化的、歴史的な要素によって規定付けられているかと言う事を知る意味でためになった。
筆者は帝国主義時代における二大勢力、フランス、イギリスの現代のコマースのあり方がどのように違った発展を遂げて今の消費主義社会に答えてているかと言う事を論じている。
フランスの国家形成が強く地方都市、農民の発展に重点が置かれていたという歴史的事実と、それが旧植民地アフリカ諸国における経済発展を主に農民を抱きこむ形で行こなわれたという事に寄与したと言う事実は非常に重要なポイントであると思う。そうした、農民、ある意味プロフェッショナルな技術、知識を持つものに対するフランス文化の尊敬や自負心と言うもの自体が(metis)、対人間性を重視したコモディティネットワークを可能にしたと言うことであるらしい。未だにフランスのマーケットではそいうした特定の食材に対する深い知識を持つ店主などが多くの尊敬を集めるそうだ。こうしたpeasant-based rural developmentそのものが、フランスの食文化やある種「匠」の文化を支える根本にあると言うことである。
そうした伝統が今のフランスにおける「エキゾチックな農産物」の流通ネットワークに強く見られるとの事。たとえば旧植民地であるブルキナファソなどはフランスに良質なインゲン豆を輸入しているとの事だが、その形態はある種old-fashioned commodity networkである側面が強く、人間関係や信頼と言ったものが生産から輸送にいたるまで大きな意味を持っている。今ではスーパーなども参戦しそうした側面が薄れてきてはいるものの、ひとつフランス語圏の食糧生産や物流を理解する上で大切なスコープとなる。こういる地方、農民の発展が国家形成の中で重要な意味を持ったと言うことは、直接的に旧植民地生産国におけるSmallholdersの活用と言うのものに関係しているということらしい。歴史的に、フランスにとり小規模農家を現代コモディティネットワークに取り込む事は比較的容易だったと言うことなのである。
面白いのはイギリス、アングロサクソン文化圏のコモディティネットワークのあり方である。この筆者の論は私のフェアトレードやオーガニック運動への疑問に多くの答えを与えてくれるものだと思う。
簡単に要約すると、Anglophoneの文化圏では` good practices'` codes of conducts'といったものが持つ意味が大きく、そうした規則、監査が今のコマースを支えている。こうした伝統はcorporate paternalism (instituted by the colonial-era mining companies)に依拠すると言うのであり、こうした規則や定期的な監査というものが実際遠隔統治(govern at a distance)を可能にしていると言うことらしい。
面白い事にこうした規則や日常的なチェック、監査というものが徹底されればされるほど、対人間の付き合いや信頼性と言うものが失われて行く。このようなinternalization of supermarket surveillanceが tyranny of transparencyを産み、より非人間的なコマースと言うのが発展していくと言うことであり、この文脈の中で「サプライチェーンマネジメント(SCM)」という学問領域も発展してきた。要するに、いかに供給ラインの中でリスク、コストを最小化するかと言う点に力点がおかれているのであって、そこにフランスのネットワーク構築と大きな違いを見るのである。
なるほど。ではイギリスにおけるフェアトレード、オーガニック、倫理的ショッピングとはいったいなんなのだろう。フェアトレードに関してはもともとキリスト教の構造的不平等(structural inequality)を是正するところから始まっているようで,イギリスで最も力をもつキリスト教系NGO Christian Aidが政府、スーパーマーケットなどの小売業者に働きかけたところから一気に広まるようになった。またイギリスメディアがこうした国民の意識の形成において大きな役割を担っており、そうしたメディアを抱き込んでのキャンペーンが「フェアトレード」などのethical shoppingをメインストリームに押し上げる事に大きく貢献したのである。
結局オーガニック認証にかんしてももともとSoil associationがはじめたある種「認証ビジネス」の構造と言うのがフェアトレードなどにも影響しているのであって、こうした認証組織は政府や大手小売業者の利権と強くその結びつきを持っているのであり、要するに冨とパワーの問題に収斂してしまうと言うことがあるだろう。実際そういった倫理的、環境的な基準と言うのが、旧植民地国の生産者を新たな形で統治する事、強国の要求を押し付ける事につながっていると言える。たとえばChild laborに関する疑問も、その是非が本当の意味で議論されているとは言えない。果たして児童労働の禁止が子供たちのより良い生活、教育へのアクセスを可能にしえいると言えるだろうか?単なる先進国の驕りや偽善に終始していないだろうか?
イギリス人のこのFoodie cultureというものは結局こうしたイギリスの旧植民地国とのコモディティネットワークの中で形成され、維持されているに過ぎないのであると思う。だからどことなく地に足の付いていない印象を他の国の人間には与えるような気がスル。
又、こうしたアングロサクソンネットワークにおいては、小規模農家というものが見過ごされがちであるし、もともとconsolidationが効率化を高めると言う思想がある中においてはsmallholder schemesというものがなじむとは到底言いがたいのである。こうしたアングロサクソン国における地方発展と言うのは本当の意味で可能であるのか自分は本当に疑問を持っている。
今考えてみればイギリスにいたとき、常に食べ物番組、ドキュメンタリーを目にしていたと思う。そうした番組の数々は要するに消費をあおるものでしかなく、いかにイギリスメディアが経済界とつながっているかを知るにいたる。BBCなんかも、結局「食を通じたライフスタイルの提案」というようなことを積極的に推し進めてるように思えるし、書籍の出版やセレブリティシェフとタイアップした商品などをスーパーで良く目にした。すべてはこうしたイギリスのコモディティネットワークと言う中である意味独自の発展を遂げているように私には写る。
アフリカはそういった点において本当の意味で強国のイデオロギーのかなで大きな犠牲を強いられていると思う。EUとアメリカ、またイギリスなど、たとえば、遺伝子組み換えの問題(transatlantic GM battle in Africa)でも国際政治の中でがんじがらめにさせられているようで胸が傷む。しかしながら、こうした開発学的問題と言うのは植民地主義の歴史やその遺産をいかに精算するかという事が大きなボトルネックになっている気がしてならない。歴史は変えられない、では我々に何ができるのだろう?
この手の本は他にもあって、たとえば
The Noodle Narratives: The Global Rise of an Industrial Food into the Twenty-First Centuryや
Cheap Meat: Flap Food Nations in the Pacific Islandsが近いものがあると思う。まあ現代においてはフードスタディは結構はやりだからあれだけど、なかなか面白い論を言える人がいない気がスル。なんとなくいつもネオリベラリズムや植民地主義の歴史、またネオコロニアリズムにかんして言っているような気がしてならない。それ言っちゃおしまいよー的な感じがしないでもないんだけど。。。。
そういえば最近読んで色々と納得したころがあったのはこの本の存在を知ってから.Taken: Exposing Sex Trafficking and Slavery in India
こういう現実があると言うことははやり同じ女性としては考えさせられること多い。そんな中で、THE QUEENS DAUGHTERS IN INDIAという1892年にかかれた文章を読んだのだけれど、ちょっと色々ショックを受けてしまった。こうした現在にも続く人身売買、売春などの事象はイギリス植民地統治時代より構造的に形成されたものであると言うことはある種衝撃で、軍の士気を維持するために現地の女性を調達するということを組織的に実行したと言う事実は、植民地政策を知る上で大切なことだと思ってしまった。まあ要するに性病の蔓延をコントロールするために公衆衛生に関する法律を整備したりしたということは非常に興味深い。まだ途中までしか読んでないけどこれもイギリス植民地主義の暗部を知る意味でも私にとって勉強になる。
こうして考えてみると、コモディティネットワークでも現代の諸問題もやはり18,19世紀に端を発しているケースが多いように感じる。
もっと色々書こうと思ったけど、とりあえずこの辺で、、、、、。
Thursday, 12 September 2013
会社を休んで考えた事 等
就職して働き始めるとそれはそれで色々な問題や悩みが浮上してくるものだと最近感じるようになった。今日は実際あまり体調が優れなかったので病欠という事で会社を休んでみている訳だけど、真剣に転職活動をしようと思っている。実際あまり大きい会社でない上に、上司による所謂「セクハラ」の様なものを受けており、実際会社でその人の顔を見たり、話を聞くだけでも正直最近は耐えられなくなっている自分が要る事に気づく。結局無理していた何かが自分の中で頂点に達してしまったようである。まあ早急に転職しなくてはと考える今日この頃である。
そんな日常の中でも楽しみというのは有る訳で、実際その点については完全に充実した日々を送っていると思う。
昨日はニュージーランド人の友達と地元の駅で会い、酒を中心とした酒晴(サカバルと読む)で夕食を食べた。
ワイングラスで日本酒が出てくるのと、つまみも結構美味しいので友達が練馬に来たときはたまに使う。なんと言ってもスタッフが若くて元気が有るからいい。ああいった感じは、自分の中では三鷹とか吉祥寺とか中央線沿線の感じがする。だから練馬にもついにこうした流れが来たか、と変な感慨に浸ったりしている。実際日本に帰ってきてから意外と練馬とか地元が変わってきており住みやすくなったと感じている。やはり大江戸線や西武線と副都心線合体等のせいで交通の便がぐっと良くなっているせいも有るだろう。
昨日は友達の彼が売っている蜂蜜をくれた。今まで5種類くらいもらってるが今回は一番私の好きな味のやつをもらった。ニュージーランド産天然蜂蜜で最近は色々お客さんを増やしているみたいで、そう言った話を聞くと私も嬉しくなる。仕事を始める前は一緒に大井埠頭に行って積み荷を手伝ったりしたっけ。
ちなみに彼の最近のお客さんは成城石井、安全すたいる、等かなり有名なところが多い。特にこの安全すたいるという会社は通販で天然食品を売っているようでかなりポテンシャルが高いお客さんであるといえる。
今回はこれをもらったのだが、お店で急遽試食会が始まりそれをお店に寄付する事になった。結果的に彼はオーダーを結構その場でもらっていたので、商売何が有るかわからないものである。
今回即時購入を決めたお客さんはなんと蜂蜜を美容液代わりに使っているらしい。素晴らしくお肌が綺麗な熟女だったから私も蜂蜜を顔に塗ってみようかしら?!
先週の日曜日は池袋で用事があり色々飲んだり食べたりお金を使ってしまった。まずランチは東京藝術劇場のなかにあるベルギービールカフェ ベル・オーブ東京藝術劇場にいって、よく覚えていないけどフリッツとベルギービールのでかいのを飲んだ。
かなり退廃的日曜日である。しかし昼ビールのこの背徳感がたまらない。まああまり好きな味じゃないビールだったけどオープンスペースのこのレストランは開放感があって好きだ。特に日曜の昼あたりのリラックスした雰囲気がいい。
その後は腹ごなしもかねて鬼子母神神社に行って来た。
この鬼子母神の伝説って結構面白い。要するに子宝とかそう言ったご利益が有るらしい。実際この鬼子母神って子供を食べちゃうような女性であったみたいだけど、仏教に改宗して子孫繁栄等の神様になったよう。もともとはイランの伝説から来ているみたいだけど、彼女が仏陀と出会う事によって子供のある意味守護神のようなものになったとの事。仏教流布のため、また伝説が生まれた当時の社会状況を考えると幼児の死亡率も高く医療もレベルも低い中で子供が生きる事そのものが大きな意味を持ったと考えられる。
実際この鬼子母神神社は非常に雰囲気がいいから私は心が落ち着くので好きだ。池袋の喧噪を完全に忘れる事が出来るいい場所だと思う。
その後はお決まりのルート。池袋ジュンク堂へ。そこで買った本がこれ。
これは昔ヴィレッジバンガードで立ち読みした事が有るが、英語で読むのは初めて のThe Invention of Solitude 。Portrait of an Invisible manは彼の父親との関係、一人の男性が有するある種絶対的な「孤独」「空間」というものに焦点が当てられている。邦訳だと「孤独の発明」となっているけどこのSolitudeという言葉には「孤独」という言葉が持たないニュアンスを含んでいると感じる。こういう時に「ロストイントランスレーション」だなと感じてしまう。ポールオースターはなぜか大学時代から読んでいる作家の一人。でも最近は英語強化年間に突入しているので原点を当たる事に。
これを読んでいる時私は自分の父親の事を考えざるを得なかった。急死してもうすぐ丸四年である。私は一生彼の残した絶対的に「理解」し得ない何かを探し続けるのだと感じているし、実際自分の最近の読書の傾向としてはそうしたもの知らずのうちに求めている気がしてならない。
この本の中で、父親の死後筆者は様々な父親の「Solitude」に触れる。亡くなってしまった以上物理的な接触は無くなってしまう訳だけど、実際その物理的な存在が無くなったからこそ理解出来る存在というものがある。彼の父親にとって「Death was a way out, the only legitimate escape」だったのだけど、残されたものにとってはそうはいかない。実際私の父親は殆ど完璧とも言える最期を迎えた、苦しまずに、それも軽井沢というロケーションで。でも我々家族が如何にトラウマを抱える事になったかかれは知らない。
結局筆者は「Impossible, I realize, to enter another's solitude」だと言っているが、私もその点は同意する事この上ない。「不可能な事」をしようと思うその労力が時に大きな苦悩を呼ぶのだと感じる。
結局立ち読みのつもりが買ってしまった。いつものパターンである。
そう、今は英語強化年間開催中なのであって、時間が有ればなるべく読むようにしている。最近読み終わった本の一つはこれ。
これは例のジャーナリストの友達が進めていたので読んだ。
私が読んで最初に思った事は徹底した「英国主義」の描写である。バトラーなんていう職業も英国の社会システムを考えるとここでしか存在しないモノだと感じる。実際イシグロも、「大陸の人間にはできない仕事」だと言っている。
この本の美しさは、過ぎ去った時代への郷愁とともに理想を抱く人間達の描写、また全体に見える「subtleness」といものが彼の日本人としての感性を見て取れるところだと思う。流石ブッカー賞受賞作だけあった文章は美しい(らしい、、。)。
しかし読んでいて主人公の言動一つ一つが非常にもどかしく感じられ、まあそこがこの本の魅力なのでは有るが、やきもきしながら読んだ。要するに、徹底した職業意識、またそこに彼が感じている美学というものがある種中心になっている訳なんだけど、それが二度と戻らない時代を象徴しているかのようで読者に与えるインパクトは大きい。
イシグロの作品は他に2作程読んでいるが、他は駄作に思えてならない。特にNever let me goは「は?」って感じだった。まああれがいいという人も多いけど私には良さがわからなかったな。
「二度と戻らない時代」といえば最近読んだこれもそれを強く感じさせる。ジョージオーウェルのカタロニア讃歌である。Homage to Catalonia
Oh Spain! ここで描かれているスペイン人、スペインのオーウェルによる描写はかなり私が実際にスペインで見たものとオーバーラップする。大義を抱いてスペイン内戦に参戦したオーウェルが体験するのは、全く想像とはかけ離れた世界。武器の調達もままならない無政府主義者の軍隊、シラミと格闘するキャンプ、等々、読んでいて何カ所も笑ってしまう部分があった。文章から人間性が見えるとはこの事だと思う。私はこの読書を通じてオーウェルのもっとファンになってしまった。昔ファイナンシャルタイムズで「我々の時代ははどうしてオーウェルを有しないか」という事をのせていたけど、政治評論や社会論を彼のように表す人はいない、という様な事が書いてあったと記憶している。要するに彼もまた「時代の産物」なのかもしれない。
スペイン内戦には世界の文豪や様々な人が実際に戦火を見ており、この戦争が思想的、社会的に持った意味の大きさを知る。私としては、混沌とした時代、皆が様々な社会システムに対して理想を持っていたわけで、ファシズムと戦ったり、共産主義を標榜してみたりとある種「自由」というものがあった、と理解している。今は社会が成熟しそうした「自由」を謳歌する事が出来ない。1930年代等様々な戦争をとおして悲しみ、苦悩を経験はしたけど、人々には「希望」や「理想」あったのだと感じる。
忘れないうちに、これも先週読み終わった本の一つ。A Greedy Man in a Hungry World: How (almost) everything you thought you knew about food is wrong
これはロンドンに住んだ事のある人間だったら絶対色々と笑ってしまう本だと思う。彼はレストラン評論家としても有名だけど、実際はジャーナリストで色々なトピックをカバーしているらしい。
内容としてはあまり満足のいくものではなかったけど読んでいて楽しかった。まあこの手の本はもう結構読んでいるから新しい知識の習得というものは無かったけど、イギリスやその他ヨーロッパ諸国で跋扈する「サステナビリティ」に対するある種信仰心のようなものに疑問を投げかけている訳でそう言う意味では一読に値すると感じる。個人的な感想としては、尻切れで終わっている感が否めない。
はあ。なんかつかれてしまった、、、、。
そんな日常の中でも楽しみというのは有る訳で、実際その点については完全に充実した日々を送っていると思う。
昨日はニュージーランド人の友達と地元の駅で会い、酒を中心とした酒晴(サカバルと読む)で夕食を食べた。
昨日は友達の彼が売っている蜂蜜をくれた。今まで5種類くらいもらってるが今回は一番私の好きな味のやつをもらった。ニュージーランド産天然蜂蜜で最近は色々お客さんを増やしているみたいで、そう言った話を聞くと私も嬉しくなる。仕事を始める前は一緒に大井埠頭に行って積み荷を手伝ったりしたっけ。
ちなみに彼の最近のお客さんは成城石井、安全すたいる、等かなり有名なところが多い。特にこの安全すたいるという会社は通販で天然食品を売っているようでかなりポテンシャルが高いお客さんであるといえる。
今回はこれをもらったのだが、お店で急遽試食会が始まりそれをお店に寄付する事になった。結果的に彼はオーダーを結構その場でもらっていたので、商売何が有るかわからないものである。
今回即時購入を決めたお客さんはなんと蜂蜜を美容液代わりに使っているらしい。素晴らしくお肌が綺麗な熟女だったから私も蜂蜜を顔に塗ってみようかしら?!
先週の日曜日は池袋で用事があり色々飲んだり食べたりお金を使ってしまった。まずランチは東京藝術劇場のなかにあるベルギービールカフェ ベル・オーブ東京藝術劇場にいって、よく覚えていないけどフリッツとベルギービールのでかいのを飲んだ。
ファット!
かなり退廃的日曜日である。しかし昼ビールのこの背徳感がたまらない。まああまり好きな味じゃないビールだったけどオープンスペースのこのレストランは開放感があって好きだ。特に日曜の昼あたりのリラックスした雰囲気がいい。
その後は腹ごなしもかねて鬼子母神神社に行って来た。
実際この鬼子母神神社は非常に雰囲気がいいから私は心が落ち着くので好きだ。池袋の喧噪を完全に忘れる事が出来るいい場所だと思う。
その後はお決まりのルート。池袋ジュンク堂へ。そこで買った本がこれ。
これは昔ヴィレッジバンガードで立ち読みした事が有るが、英語で読むのは初めて のThe Invention of Solitude 。Portrait of an Invisible manは彼の父親との関係、一人の男性が有するある種絶対的な「孤独」「空間」というものに焦点が当てられている。邦訳だと「孤独の発明」となっているけどこのSolitudeという言葉には「孤独」という言葉が持たないニュアンスを含んでいると感じる。こういう時に「ロストイントランスレーション」だなと感じてしまう。ポールオースターはなぜか大学時代から読んでいる作家の一人。でも最近は英語強化年間に突入しているので原点を当たる事に。
これを読んでいる時私は自分の父親の事を考えざるを得なかった。急死してもうすぐ丸四年である。私は一生彼の残した絶対的に「理解」し得ない何かを探し続けるのだと感じているし、実際自分の最近の読書の傾向としてはそうしたもの知らずのうちに求めている気がしてならない。
この本の中で、父親の死後筆者は様々な父親の「Solitude」に触れる。亡くなってしまった以上物理的な接触は無くなってしまう訳だけど、実際その物理的な存在が無くなったからこそ理解出来る存在というものがある。彼の父親にとって「Death was a way out, the only legitimate escape」だったのだけど、残されたものにとってはそうはいかない。実際私の父親は殆ど完璧とも言える最期を迎えた、苦しまずに、それも軽井沢というロケーションで。でも我々家族が如何にトラウマを抱える事になったかかれは知らない。
結局筆者は「Impossible, I realize, to enter another's solitude」だと言っているが、私もその点は同意する事この上ない。「不可能な事」をしようと思うその労力が時に大きな苦悩を呼ぶのだと感じる。
結局立ち読みのつもりが買ってしまった。いつものパターンである。
そう、今は英語強化年間開催中なのであって、時間が有ればなるべく読むようにしている。最近読み終わった本の一つはこれ。
これは例のジャーナリストの友達が進めていたので読んだ。
私が読んで最初に思った事は徹底した「英国主義」の描写である。バトラーなんていう職業も英国の社会システムを考えるとここでしか存在しないモノだと感じる。実際イシグロも、「大陸の人間にはできない仕事」だと言っている。
この本の美しさは、過ぎ去った時代への郷愁とともに理想を抱く人間達の描写、また全体に見える「subtleness」といものが彼の日本人としての感性を見て取れるところだと思う。流石ブッカー賞受賞作だけあった文章は美しい(らしい、、。)。
しかし読んでいて主人公の言動一つ一つが非常にもどかしく感じられ、まあそこがこの本の魅力なのでは有るが、やきもきしながら読んだ。要するに、徹底した職業意識、またそこに彼が感じている美学というものがある種中心になっている訳なんだけど、それが二度と戻らない時代を象徴しているかのようで読者に与えるインパクトは大きい。
イシグロの作品は他に2作程読んでいるが、他は駄作に思えてならない。特にNever let me goは「は?」って感じだった。まああれがいいという人も多いけど私には良さがわからなかったな。
「二度と戻らない時代」といえば最近読んだこれもそれを強く感じさせる。ジョージオーウェルのカタロニア讃歌である。Homage to Catalonia
Oh Spain! ここで描かれているスペイン人、スペインのオーウェルによる描写はかなり私が実際にスペインで見たものとオーバーラップする。大義を抱いてスペイン内戦に参戦したオーウェルが体験するのは、全く想像とはかけ離れた世界。武器の調達もままならない無政府主義者の軍隊、シラミと格闘するキャンプ、等々、読んでいて何カ所も笑ってしまう部分があった。文章から人間性が見えるとはこの事だと思う。私はこの読書を通じてオーウェルのもっとファンになってしまった。昔ファイナンシャルタイムズで「我々の時代ははどうしてオーウェルを有しないか」という事をのせていたけど、政治評論や社会論を彼のように表す人はいない、という様な事が書いてあったと記憶している。要するに彼もまた「時代の産物」なのかもしれない。
スペイン内戦には世界の文豪や様々な人が実際に戦火を見ており、この戦争が思想的、社会的に持った意味の大きさを知る。私としては、混沌とした時代、皆が様々な社会システムに対して理想を持っていたわけで、ファシズムと戦ったり、共産主義を標榜してみたりとある種「自由」というものがあった、と理解している。今は社会が成熟しそうした「自由」を謳歌する事が出来ない。1930年代等様々な戦争をとおして悲しみ、苦悩を経験はしたけど、人々には「希望」や「理想」あったのだと感じる。
忘れないうちに、これも先週読み終わった本の一つ。A Greedy Man in a Hungry World: How (almost) everything you thought you knew about food is wrong
これはロンドンに住んだ事のある人間だったら絶対色々と笑ってしまう本だと思う。彼はレストラン評論家としても有名だけど、実際はジャーナリストで色々なトピックをカバーしているらしい。
内容としてはあまり満足のいくものではなかったけど読んでいて楽しかった。まあこの手の本はもう結構読んでいるから新しい知識の習得というものは無かったけど、イギリスやその他ヨーロッパ諸国で跋扈する「サステナビリティ」に対するある種信仰心のようなものに疑問を投げかけている訳でそう言う意味では一読に値すると感じる。個人的な感想としては、尻切れで終わっている感が否めない。
はあ。なんかつかれてしまった、、、、。
Monday, 2 September 2013
最近行った神社等
この数週間、色々な神社等に行って改めてニホンの神道、神社の中にある種安らぎと言うか安寧を見つける事多々あった。
あまり関係ないかもしれないが、私は何か大切な事があると地元の氷川神社に行く。なんと言うか、行くと落ち着くし自分の心と対話できるような気がして小さい時からよく訪れている。
氷川神社は関東に独自のものらしいが、要するに祭っている神はスサノオノミコトで個人的に信奉する神様のひとつである。私の感覚だと武神に近いところがあり、スサノオノミコトは様々な神社で祭られているのでニホンの神話の中でもかなり有名で重要な神であると感じる。
何かの本で読んだが、私の姓名や誕生日から牛頭天王とは深い関係があり、その神を慕えば慕うほどある種守護を与えてもらえる、との事である。牛頭天王はあらぶる神であるがその霊力はきわめて強く、ニホンの神仏混合のなかでスサノオノミコトと結びついていると言うことらしい。私はその記述を読んで以降、この牛頭天王を祭っている祇園信仰等に深い関心を持っている。
それはさておき、最近氷川神社を中心に好きな神社をめぐっているなかで東京を再発見する事たくさんありとても面白かった。
まず最初に大宮の氷川神社に気温が異常に高い日曜日にお参りした。ここは幼いころから家族でよく訪れていたのだが、参道をきちんと歩いたのは今回が初めてで、長く鄙びた感じのする参道を歩くのはすばらしく気持ちのよいことであった。
中も広く他の東京の大きな神社と違って、あまり混んでいないし庭園もあり非常にゆっくりとした時間が流れているという印象で、私はこのようなところに親近感と言うか神社としての魅力があると感じている。
適当な写真が見つからないので、、、。
こちらで神職として研修を受けていた某知人と合流し、大宮駅近くの大衆居酒屋で生ビ-ルでのどを潤した。よい日曜日の過ごし方である。
先週の土曜日は赤坂を中心とした神社を歩いた。
まず豊川稲荷東京別院から。
ここは不思議なんだけど、曹洞宗のお寺なんですよね。稲荷と言うと稲荷神社と自動的に脳内変換されてしまうけど、ここで祭っているのは豊川ダ枳尼眞天 (とよかわだきにしんてん)であり
いわゆるお稲荷様ではないらしい。通称豊川稲荷で通っているけどここらへんの歴史は非常に興味深い。
ここは本殿というか中に入って正座してお参りできるので落ち着いて拝むことができてとてもよいと思う。場所柄多くの企業や芸能関係の人が参拝すると聞くがどうなのだろう。
次は山王日枝神社。御祭神は大山咋神(おほやまくひのかみ)で系譜はこのような関係性らしい。(日枝神社サイトより)
地主神であり、そのご利益は産業の発展など多岐にわたる。江戸時代からは江戸城の鎮守として篤い崇敬を徳川家やその他大名等から得ていたらしい。現在においても赤坂のど真ん中で立地がすばらしく、存在感がすごい。
エレベ-タ-で本殿までいけるのでとても便利。高台の頂上に本殿があるのだけど、空の中にあるような印象を受ける神社で心が洗われるようである。
節分の時の豆まき大会は豪勢で懸賞物があったり、角界の著名人が豆を投げたりして一見の価値はあると思う。ちなみに私の姉はこの豆まきでプラズマクラスタ-を当てた。
真夏の神社めぐりは体力勝負。赤坂のイタリアンでビ-ル、プロセコを飲んで水分補給。ここらへんは歓楽街だから色々と面白い店があって楽しい。今度は夜に来て本格的に呑みたい。
次は赤坂氷川神社。東京ミッドタウンや各国大使館がひしめく六本木、赤坂の中にあるのだけど全く派手なところがなく落ち着いていて、好きな神社のひとつである。
夏の暑い日に蝉時雨の中でこの神社にいれる事はある意味心地よかったと思う。しかしながらあまりに暑過ぎて色々と感慨に浸ったりする事はできなかった。急いでミッドタウンへ。都会の「オアシス」である。
神社めぐりをしながら歩いた事のない道を歩いたり、新しいカフェや店を見つけたりするのが楽しい。最近は又しっかり神道や神話について学びたい気がしてきたので時間を見つけて神社めぐりをしながら理解を深めて行きたい。
関西に行きたいな、、、、。
あまり関係ないかもしれないが、私は何か大切な事があると地元の氷川神社に行く。なんと言うか、行くと落ち着くし自分の心と対話できるような気がして小さい時からよく訪れている。
氷川神社は関東に独自のものらしいが、要するに祭っている神はスサノオノミコトで個人的に信奉する神様のひとつである。私の感覚だと武神に近いところがあり、スサノオノミコトは様々な神社で祭られているのでニホンの神話の中でもかなり有名で重要な神であると感じる。
何かの本で読んだが、私の姓名や誕生日から牛頭天王とは深い関係があり、その神を慕えば慕うほどある種守護を与えてもらえる、との事である。牛頭天王はあらぶる神であるがその霊力はきわめて強く、ニホンの神仏混合のなかでスサノオノミコトと結びついていると言うことらしい。私はその記述を読んで以降、この牛頭天王を祭っている祇園信仰等に深い関心を持っている。
それはさておき、最近氷川神社を中心に好きな神社をめぐっているなかで東京を再発見する事たくさんありとても面白かった。
まず最初に大宮の氷川神社に気温が異常に高い日曜日にお参りした。ここは幼いころから家族でよく訪れていたのだが、参道をきちんと歩いたのは今回が初めてで、長く鄙びた感じのする参道を歩くのはすばらしく気持ちのよいことであった。
中も広く他の東京の大きな神社と違って、あまり混んでいないし庭園もあり非常にゆっくりとした時間が流れているという印象で、私はこのようなところに親近感と言うか神社としての魅力があると感じている。
適当な写真が見つからないので、、、。
こちらで神職として研修を受けていた某知人と合流し、大宮駅近くの大衆居酒屋で生ビ-ルでのどを潤した。よい日曜日の過ごし方である。
先週の土曜日は赤坂を中心とした神社を歩いた。
まず豊川稲荷東京別院から。
ここは不思議なんだけど、曹洞宗のお寺なんですよね。稲荷と言うと稲荷神社と自動的に脳内変換されてしまうけど、ここで祭っているのは豊川ダ枳尼眞天 (とよかわだきにしんてん)であり
いわゆるお稲荷様ではないらしい。通称豊川稲荷で通っているけどここらへんの歴史は非常に興味深い。
ここは本殿というか中に入って正座してお参りできるので落ち着いて拝むことができてとてもよいと思う。場所柄多くの企業や芸能関係の人が参拝すると聞くがどうなのだろう。
次は山王日枝神社。御祭神は大山咋神(おほやまくひのかみ)で系譜はこのような関係性らしい。(日枝神社サイトより)
地主神であり、そのご利益は産業の発展など多岐にわたる。江戸時代からは江戸城の鎮守として篤い崇敬を徳川家やその他大名等から得ていたらしい。現在においても赤坂のど真ん中で立地がすばらしく、存在感がすごい。
エレベ-タ-で本殿までいけるのでとても便利。高台の頂上に本殿があるのだけど、空の中にあるような印象を受ける神社で心が洗われるようである。
節分の時の豆まき大会は豪勢で懸賞物があったり、角界の著名人が豆を投げたりして一見の価値はあると思う。ちなみに私の姉はこの豆まきでプラズマクラスタ-を当てた。
真夏の神社めぐりは体力勝負。赤坂のイタリアンでビ-ル、プロセコを飲んで水分補給。ここらへんは歓楽街だから色々と面白い店があって楽しい。今度は夜に来て本格的に呑みたい。
次は赤坂氷川神社。東京ミッドタウンや各国大使館がひしめく六本木、赤坂の中にあるのだけど全く派手なところがなく落ち着いていて、好きな神社のひとつである。
夏の暑い日に蝉時雨の中でこの神社にいれる事はある意味心地よかったと思う。しかしながらあまりに暑過ぎて色々と感慨に浸ったりする事はできなかった。急いでミッドタウンへ。都会の「オアシス」である。
神社めぐりをしながら歩いた事のない道を歩いたり、新しいカフェや店を見つけたりするのが楽しい。最近は又しっかり神道や神話について学びたい気がしてきたので時間を見つけて神社めぐりをしながら理解を深めて行きたい。
関西に行きたいな、、、、。
Tuesday, 13 August 2013
読んだ本、考えた事など 備忘録
ここのところはかなり暑さもそこまで暴力的ではなかったけど、今日から又暑さがぶり返すらしい。実際日中はオフィスにいるからむしろ寒いくらいであるけれど、外にでれば「ここは南国?」と思ってしまうくらい暑い。
こう暑いとアクティビティは専らインドアになってしまう。やっとここに来て今まで読んでいた本も読み終えたから次は何を読もうかと考える事ができてうれしい。
Shantaramはロンドンに初めて行った2010年の2月に買って、それ以来幾度となく読書にチャレンジしてきたが、如何せん900ペ-ジ超の小説を読むのはかなりの勇気がいるし、大学院が始まればやはり学校で必要なものを読まなければいけなかったのでこうして今無事読むことができてうれしいと思っている。
主人公はニュ-ジ-ランドから脱獄し、インドボンベイで住みながら、様々な人に出会い、また多くの波乱を潜り抜ける事によって、彼自身の人生を見つめなおし、力強く生活していく。インド社会の「負」の側面をよく描写しているのはないかとおもうし(未だに行ったことないからこんな事は言えないかもしれない。。。)、またそうした人々が日常的に困難、貧困に直面する中においても力強く、前向きに生きていく様が描かれていて、つい電車の中で感じ入ってしまうことがあった。こうしたものを読むと、人間の人生というものの多様性と時間の流れの中でも変わらない何かというものがあるのではないかと考えさせられてしまう。
作中で主人公は「Love」ということについて多くの考察を加えている。脱獄生活の中で自分が失ったもの、愛するものへの感慨といったもの、また彼の生活の中で新たに生じた愛というものへの真偽について自問自答することが、様々な事柄を経験する中で常に一貫してあるテ-マだったと思う。親友、家族、父親、そして恋人への自分の持つある種複雑な、またどこにおいても完結しない「愛」というものが彼に多くのことを考えさせるのである。
彼の人生と言うのは、まあ小説だから仕方のない事なのだけど、ドラマチックすぎて現実味がないと言えばない。しかしながら彼が描写すること、考察する事は普遍的なものを含んでおり、インドのスラムに住んだり、ギャングになったりした事がなくても引き込まれてしまう。この本は半分は本当の話らしい、というのも筆者はたしか本当のクリミナルだった。ヘロイン中毒、銀行強盗で服役していたが、脱獄しインドに行きつくあたりは本当の話。けど健全なる自叙伝ではなく、創作と事実が交錯し誰も本当のところは分からない、というところにかなり意味があると思う。
いつか本で読んだが、誰でも一冊は本を書くことができる、それは自分についての物語である、らしい。この本はまさにそれを体現するものであると感じる。以前私の大学の教授が言っていたが、人生を学ぶために小説を読む、というのは正しいのではないかと、最近実感することが多い。
ちなみにこのシャンタラムというのは、インドの彼の親友の母親が付けてくれたニックネ-ムで「Man of peace」という意味。是はかなり最初のほう出てくるスト-リ-だけど、彼のおくってきた人生、送るであろう人生とある意味対比する名前であり、この小説にぴったりの名前であると思う。
こうしてインドに関する本を読んでいると自然と色々な事に関心を持つものである。そういえば、最近インドビハ-ル州で給食を食べた児童23人が亡くなる事件があったが、その原因は殺虫剤入りの食事から来た中毒死であったそうだ。しかしそもそもどうしてこうした事件が起こるのかと言えば、インドにおける過剰なまでの殺虫剤、除草剤の使用があげられる。この記事によると、インドにおいては欧米等で禁止されている化学製品が未だに販売されており、そうした化学製品による環境汚染や人体への影響と言うのが後を絶たない。安易に手に入る危険な毒物に対する扱い、認識というのも非常に低く、今回の給食事件のようにカラの殺虫剤の容器に食用油をいれるなどとんでもない事が起きてしまう。また借金苦から多くのインド人農民が殺虫剤や除草剤を飲んで自殺を図ることがかなり多く見られ、社会においてこうした容易に手に入る毒物が深刻な影響を与えていることが見て取れる。
どこの国でもそうなのだけど、こうした化学肥料や殺虫剤等が自然環境に与える影響と言うのはすごいものがあって、インドはその最前線であるとも言える。動物に投与する抗生物質も大きな問題であり、こうした事が簡単に自然環境の組成と言うものを替えてしまう。そうした例を示したのがIndia's vanishing vultures。これは、ハゲワシがインドの町から消えて行く自体を描写したものであり、生態系の崩れがもたらす深刻な影響と言うのを物語っている。ハゲワシというのはインドにおいてある種ごみ処理部隊のような役割を果たしており、肉食である彼らは動物の死骸等をえさにしている。こうした事は日本ではありえないけど、牛がが闊歩する、また家畜保有が高いインドにおいてはこうしたスカベンジャ-がなくてはならないものであるらしい。しかし、家畜に投与されている抗生物質がハゲワシに肝不全のような症状をもたらし、今急激にその個体数が減っているとの事。是がいったい何をもたらすのかと言えば、動物の死骸を食べなくなったハゲワシに変わり野犬の増大、不衛生な環境がもたらす感性症の拡大など多岐にわたる。
大学院ではいつも「緑の革命」に関する事象を勉強させられた。要するに、現代型の化学肥料の大量投入、農薬の使用、遺伝子組み換え種子などが生産性の向上をもたらした一方、そうした新しい技術が自然に多くの変化をもたらし、また生産者が抱える継続的な投資への負担が取り沙汰されるようになった。インドにおいては、農薬の使用が人体に悪影響を与え、また高価な遺伝子組み換え済み種子を毎年買わなければいけないという悪循環が出来上がってしまった。要するに、モンサントなど大きな国際企業が貧しい農民を搾取しているという図式である。遺伝子組み換え種子と言うのはそれに見合った肥料や農薬を必要とするので、結局生産性はあがるかもしれないがそれに伴う投資額も莫大になってしまう。インドの農民みたいにほとんど有機栽培で保存していた種を使用し長年「持続可能性」を実現してきたものにとって、この西欧型の農業モデルというのはその根底から農民のシステムを変えてしまったとも言える。そのためインド農民の農薬を用いた服毒自殺は特に地方においては多く見られる。借金して買った農薬を実際の自殺の道具として用いるとはなんとも皮肉である。
World According to Monsanto
図書館に行きたい、、、、。
こう暑いとアクティビティは専らインドアになってしまう。やっとここに来て今まで読んでいた本も読み終えたから次は何を読もうかと考える事ができてうれしい。
Shantaramはロンドンに初めて行った2010年の2月に買って、それ以来幾度となく読書にチャレンジしてきたが、如何せん900ペ-ジ超の小説を読むのはかなりの勇気がいるし、大学院が始まればやはり学校で必要なものを読まなければいけなかったのでこうして今無事読むことができてうれしいと思っている。
主人公はニュ-ジ-ランドから脱獄し、インドボンベイで住みながら、様々な人に出会い、また多くの波乱を潜り抜ける事によって、彼自身の人生を見つめなおし、力強く生活していく。インド社会の「負」の側面をよく描写しているのはないかとおもうし(未だに行ったことないからこんな事は言えないかもしれない。。。)、またそうした人々が日常的に困難、貧困に直面する中においても力強く、前向きに生きていく様が描かれていて、つい電車の中で感じ入ってしまうことがあった。こうしたものを読むと、人間の人生というものの多様性と時間の流れの中でも変わらない何かというものがあるのではないかと考えさせられてしまう。
作中で主人公は「Love」ということについて多くの考察を加えている。脱獄生活の中で自分が失ったもの、愛するものへの感慨といったもの、また彼の生活の中で新たに生じた愛というものへの真偽について自問自答することが、様々な事柄を経験する中で常に一貫してあるテ-マだったと思う。親友、家族、父親、そして恋人への自分の持つある種複雑な、またどこにおいても完結しない「愛」というものが彼に多くのことを考えさせるのである。
彼の人生と言うのは、まあ小説だから仕方のない事なのだけど、ドラマチックすぎて現実味がないと言えばない。しかしながら彼が描写すること、考察する事は普遍的なものを含んでおり、インドのスラムに住んだり、ギャングになったりした事がなくても引き込まれてしまう。この本は半分は本当の話らしい、というのも筆者はたしか本当のクリミナルだった。ヘロイン中毒、銀行強盗で服役していたが、脱獄しインドに行きつくあたりは本当の話。けど健全なる自叙伝ではなく、創作と事実が交錯し誰も本当のところは分からない、というところにかなり意味があると思う。
いつか本で読んだが、誰でも一冊は本を書くことができる、それは自分についての物語である、らしい。この本はまさにそれを体現するものであると感じる。以前私の大学の教授が言っていたが、人生を学ぶために小説を読む、というのは正しいのではないかと、最近実感することが多い。
ちなみにこのシャンタラムというのは、インドの彼の親友の母親が付けてくれたニックネ-ムで「Man of peace」という意味。是はかなり最初のほう出てくるスト-リ-だけど、彼のおくってきた人生、送るであろう人生とある意味対比する名前であり、この小説にぴったりの名前であると思う。
こうしてインドに関する本を読んでいると自然と色々な事に関心を持つものである。そういえば、最近インドビハ-ル州で給食を食べた児童23人が亡くなる事件があったが、その原因は殺虫剤入りの食事から来た中毒死であったそうだ。しかしそもそもどうしてこうした事件が起こるのかと言えば、インドにおける過剰なまでの殺虫剤、除草剤の使用があげられる。この記事によると、インドにおいては欧米等で禁止されている化学製品が未だに販売されており、そうした化学製品による環境汚染や人体への影響と言うのが後を絶たない。安易に手に入る危険な毒物に対する扱い、認識というのも非常に低く、今回の給食事件のようにカラの殺虫剤の容器に食用油をいれるなどとんでもない事が起きてしまう。また借金苦から多くのインド人農民が殺虫剤や除草剤を飲んで自殺を図ることがかなり多く見られ、社会においてこうした容易に手に入る毒物が深刻な影響を与えていることが見て取れる。
どこの国でもそうなのだけど、こうした化学肥料や殺虫剤等が自然環境に与える影響と言うのはすごいものがあって、インドはその最前線であるとも言える。動物に投与する抗生物質も大きな問題であり、こうした事が簡単に自然環境の組成と言うものを替えてしまう。そうした例を示したのがIndia's vanishing vultures。これは、ハゲワシがインドの町から消えて行く自体を描写したものであり、生態系の崩れがもたらす深刻な影響と言うのを物語っている。ハゲワシというのはインドにおいてある種ごみ処理部隊のような役割を果たしており、肉食である彼らは動物の死骸等をえさにしている。こうした事は日本ではありえないけど、牛がが闊歩する、また家畜保有が高いインドにおいてはこうしたスカベンジャ-がなくてはならないものであるらしい。しかし、家畜に投与されている抗生物質がハゲワシに肝不全のような症状をもたらし、今急激にその個体数が減っているとの事。是がいったい何をもたらすのかと言えば、動物の死骸を食べなくなったハゲワシに変わり野犬の増大、不衛生な環境がもたらす感性症の拡大など多岐にわたる。
大学院ではいつも「緑の革命」に関する事象を勉強させられた。要するに、現代型の化学肥料の大量投入、農薬の使用、遺伝子組み換え種子などが生産性の向上をもたらした一方、そうした新しい技術が自然に多くの変化をもたらし、また生産者が抱える継続的な投資への負担が取り沙汰されるようになった。インドにおいては、農薬の使用が人体に悪影響を与え、また高価な遺伝子組み換え済み種子を毎年買わなければいけないという悪循環が出来上がってしまった。要するに、モンサントなど大きな国際企業が貧しい農民を搾取しているという図式である。遺伝子組み換え種子と言うのはそれに見合った肥料や農薬を必要とするので、結局生産性はあがるかもしれないがそれに伴う投資額も莫大になってしまう。インドの農民みたいにほとんど有機栽培で保存していた種を使用し長年「持続可能性」を実現してきたものにとって、この西欧型の農業モデルというのはその根底から農民のシステムを変えてしまったとも言える。そのためインド農民の農薬を用いた服毒自殺は特に地方においては多く見られる。借金して買った農薬を実際の自殺の道具として用いるとはなんとも皮肉である。
World According to Monsanto
図書館に行きたい、、、、。
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