Wednesday, 14 May 2014

読んだ本あれこれ

忘れないうちに最近読んだり見聞きしたものを書いておこう。

昨年以来アフリカ、エチオピア関係の本は見るようにしているが、この本は友達から勧められた。

このシェフの事は以前からおぼろげながら知っていたが、今回この本を読むにあたって彼の生い立ちや、幼少期からの文化的接触が今日の彼の成功を支えているのだとしる。

かの国に行った時、コーディネーターの人がエチオピア生まれなのだけどスウェーデン育ちだった事を思い出す。この本によれば彼もそうしたエチオピアから孤児としてスウェーデンにおくられた子供の一人であるらしい。実の母親は残念ながら結核により亡くなっているようだが、彼はいつも母親に会える方法を知っているという。それはエチオピアのベルベレというスパイスであり、その匂いを感じ料理する事によって遠い場所にいる母親の事を近くに感じるという。ちなみにベルベレはこんな感じ。



ただ辛いという感じでもなく、色々複雑な味がするから不思議だ。エチオピアでは基本的にこのスパイスミックスが大量に使われて、様々な肉や野菜の煮込み料理が作られているらしい。某国で仕入れてきたベルベレで何回もチキンの煮込みドーロワットを作ったが、結構好評だった。というのも大量にタマネギを使っているから、スパイスの辛みがタマネギで中和される感じで非常に食べやすい。

さて。

先程のシェフであるが、所謂「セレブリティーシェフ」として有名らしい。実際彼がそこまで有名だった事は知らなかったが、何となく調べた感じだと、あまりエチオピア料理と関係がなさそうな気がしなくも無い。

料理と言えば、最近読んだ黒田勝弘氏の「韓国を食べる」にはとても笑わせて頂いた。



韓国に20年以上記者として生活した、著者の韓国の食べ物を中心とした韓国文化、人の観察が非常に興味深く面白かった。

韓国料理と言えば、プルコギ、ビビンパ、焼き肉、最近だとサムギョプサル位しか思い出せない私であったが(もちろんキムチもね。)、この本を読んで韓国の食文化というものを色々な角度で知る事が出来て面白かった。

日本に近い位置に有りながら肉食が好まれる背景としては、モンゴル帝国の影響が大きいのだという。筆者によれば、韓国料理の神髄とは「肉のスープ」であり、焼き肉等は比較的新しく根付いた文化なのだと言う。肉のスープというのは色々骨や身を煮て、そして家族や共同体で食べるものであり、こうした「肉のスープ」の匂いを筆者は語学留学時の下宿生活か如実に感じているようだ。

著者の指摘している韓国人の「精力信仰」というのも面白い。韓国は儒教の国で現世利益的な思考が共有されており、この精力信仰というのもこの現世を精一杯生きる事への現れであるようだ。韓国の「犬食」というのもこの「精力信仰」からくるものであり、多くの人が考えているような日常食では決してない。こうした食文化は往々にして諸外国から文句を言われるというのは決まっているが、ある種日本の捕鯨文化にかんしても同じ事が言え、興味深い。だいたい、ある特定の食文化を否定されるのは人々のナショナリズムを喚起する契機となることを西洋人は知っていた方がいい気がする。食文化に「理性」「理由」を求めるとややこしい事になるのは、もう周知の事実であるのではないだろうか。

私はこの本を読むまでは、黒田勝弘氏の事を誤解していたようだ。産經新聞だし、だいたい「嫌韓」の人だと思っていたが、彼の韓国人の観察、描写にはどことなく優しさ、愛すら感じる。この本を読んでいると、こんな風に面白く、また鋭く文章が書けるようになればなと思う。

食べ物の本でここ数年ずっと読んでいた人と言えば小泉武夫氏のそれであろう。

読んだ本はもう結構あり、思い出せないものもある。例えば、






等等、多数ある。

基本的には発酵学の権威であるため、発酵食品に関する内容が多いが、小泉氏の食に対する愛情、情熱といったものが作中にあふれている。やはり強靭な胃袋を持った「発酵仮面」は尊敬に値するし、文章も日経の夕刊に連載されているもの等は本当に読みやすく、堅い日経新聞のオアシスのような存在だと、購読時はよく感じたものだ。

ただ、一人の作者の本を読み続ける事によって、同じ話に出くわす事が多いのが難点だ。やはり先生のように数多くの著作をもつ人は話がオーバーラップしてしまうのは仕方のない事だろう。私は先生の本を読む度、「ああ、私も先生のように沢山、そして色々な日本の、世界の食にであってみたいなあ」という気持ちを持ってしまう。

やはり食の権威といえば、辻静雄先生の本を外す訳にはいかない。

辻先生はかの有名は辻調を一流の調理学校にした方であり、また日本のフランス料理のレベル、また人々の認識を形成する上でなくてはならない人である。

「舌の世界史」から始まり、






等、今何を読んだか思い出せないものもある。ただ、辻先生の文章は学者のそれに近く、いやむしろ学者でありまたジャーナリストの視点も見せてくれる非常に印象深いものであると感じる。実際、奥様と結婚されるまで新聞記者として活躍されていたという事なので、ジャーナリストである事は間違いがない。それにフランス語の深い知識や、その探究心等は日夜フランス料理、またワインの研究をされたその事実から明らかである。

私は「舌の世界史」が改めて読み返してみると素晴らしいなと感じるし、氏が経験された時代、またレストラン等に思いを巡らせてしまう。氏が、今現在世界で流行っている、例えば「エルブリ」や「ノマ」等の料理を食べたらどのように批評されるだろう。想像してしまう。

食を文学者として面白く描写されているのは池波正太郎先生だと思う。「散歩の時に何か食べたくなって」は有名だが、昨年読んだ


「食卓の情景」はとてもよかった。氏が日常召し上がったものを始め、家庭での事等食卓を巡る「情景」を描いたもので心に強く残る本だったとおもう。氏の幼少期の好んだ食べ物の話や、食と結びついて思いだされる人々の生き様、喜びというものが目の前に浮かぶようで、時に涙を誘う。こうしてみると、氏の時代から色々失われた食文化と言うようなものが有るような気がしてならない。まあ、私は下町の人間ではないから共有出来ない、もしくは想像のできない文化というものも有るのかもしれないが。

つい食に関する本を手に取ってしまう癖は治らないようだ。

今夜は何を食べよう。

Sunday, 6 April 2014

春の昼下がりに

会社に辞表を提出すると考えただけで気が重いが、今まで色々考えた結果だから仕方がない。

企業の会計や税務の事を考えるのは非常に勉強になるが、こうした税理士事務所の仕事は基本的に無限のループのようなもので毎月同じ事を繰り返し、決算確定申告と一年に一回訪れる業務で時の流れを感じるようなものだ。非常に安定しているが、正直これが何を運んでくれるのか疑問が有るし、所長の度重なるセクハラ発言、言動に嫌気がさしているのが真実と言ったところだろうか。

桜の季節はもう過ぎ去ってしまったようである。今年は御花見するにはタイミングが悪く強風だったり突然の雷雨に苦しめられる事が多かった。まあお花見と称して友達を呼んで家でお花見もどきをしたが、まあそんなところだろう。

最近は本もまともに読んでいない気がする。それでも読み終えた本と言えば、Ryszard KapuscinskiのShah of Shahsと The Soccer War。これで長く続いたカプスシンスキータイムがだいたい終わった訳だけど、特にこのサッカーウォーは非常に面白かった。


これを読むと今まで色々呼んできた彼の作品の背景がよりリアルに伝わってくる気がした。この本で初めてより詳細な彼のラテンアメリカでの生活、ジャーナリストとしての仕事を知る事が出来る。このタイトルもホンドゥラスとエルサルバドルの戦争でのルポタージュから来たものだが、ほとほと戦争というものはこういうはっきり言ってみれば下らないものから始まるのだと思う。もう色々と内容を思い出せないものも有るが、彼みたいに現地で様々な戦争やクーデターを目の当たりにすると、戦争というものは決して空間を越えて世界に伝わる事がないのだと実感するという。今誰かが前線でその命を失おうという瞬間に、結局誰かそのTVニュースの向こうの世界では何を食べるだとか、シャワーを浴びるだとか、如何に新聞やルポ等で世界の実情が伝えられても決して現実のものとして伝わる事がないという事は本当にだと思う。最近のニュースを見てもスーダンやシリア等の状況を知って理解したいと思っても結局その限界は既に目の前に広がっておりけして当事者意識というものはもてないのではないか、とある意味悲観的にならざるを得ない。カプスシンスキーは「当事者」としてその世界の現状をレポートしたからこそこのジャーナリズムの限界というものを強く感じていたのだと思う。だから彼がこの本の中で描きたかった事は、その事件の物理的な事実ではなくて、その「事実」を作り出した雰囲気、人間、より感覚的な事だったのだと感じる。Another day of Life も同様にそうであったが、彼が如何に出向く先で人間関係を構築したかがわかり、非常に興味深い。私個人的には彼はやはり文学的、詩的な感性をもとに非常なる日常に生きる人々への描写を、ある種本業のジャーナリズムとは別に持っていた興味関心であったと思う。

彼のルポタージュを読む中で感じる事は、彼がその手法をテーマごとによって変えているところが面白いということだ。Shah of Shahsは The Emperorとはまた異なる手法でイラン革命の緊張感あふれる民衆の生活を描いていたと思う。エンペラーの方は確かに、宮廷の人間達のインタビューという形式で全てが書かれていたので、ある種本当に独裁政権が如何に崩壊するかを内側から描いたものであったが、このシャーに関しては、イラン革命がそのシャーを取り巻く外的な力でどのように実行されたかが書かれており、その点が大きな違いであると感じる。

どちらも崩壊する体制を描いているが、読後感としてはエンペラーに非常なる寂しさを感じた。結局イラン等のイスラム教国とは異なり、一度体制が崩壊すると外部の思想、経済力等で多くの国がその舵取りを失敗してきたのだと感じる(特にアフリカ)。皇帝亡き後に訪れるエチオピアの困難を考えると、皇帝時代が一体何を意味していたのかを考えさせられてしまう。ただ、イランも少数派のシーア派としてイスラム圏では迫害されたり多くの困難に直面する事が多かったようだから、一概に色々と言えない事もあるが、、、。

最近買った本は
これはアフリカにおける英国の影響力について主に言及されている本で、多くが各国から集められたレシピで構成されている。植民地支配の中で、イギリス人が本国から持ち込んだイギリスのスパイスや調理法等がアフリカの植民地諸国において多く活用され、また独自の食文化を生んだ事がよくわかる本である。ただ、多少レシピが多いので実際に読み物として読むには少し面白みを欠くかもしれない。

さて

新しい事を始めるのは、やはり春がいいのだと思う。会社を辞める決意をしたのも、自分でやってみたいと思う仕事が出てきたからであり、自分の欠点や長所をよく理解しながら出来る事をやっていきたいと感じている。

元々自然派系の食べ物や製品に興味を持っているが、最近は友達の影響で真剣にそうした世界に身を投じてみたいと思うようになった。この蜂蜜を取り巻く製品、またビジネスというのは単に食用としての蜂蜜に留まらずその副産物等多岐に渡るようだ。蜂蜜を使った化粧品やスキンケア用品は自分で使っているからわかるが、どこかその「自然」な側面を常に感じる事が出来る事が非常に喜ばしい。

友人に送られたこのペーパーは非常に勉強になる。


心地よい昼下がりである。



Wednesday, 19 March 2014

備忘録 アゲイン

昨夜は家で一人ワインをあけてしまったせいで、案の定、暴食してしまった。おかげで一日調子が悪かったが、だいぶ気分も良くなった。こうして元気になってくるとまたいっぱい飲む事を考えたり、こりない性格だとつくづく思う。

備忘録的に、読み終わったものの感想を書いておこう。

まず Ryszard Kapuscinski のAnother Day of LIfeを読み終わった。


アンゴラの内戦についてのルポタージュで、今まで全然知らなかったその内戦の実情と言うものを知った。

なんでも著者は一年以上もアンゴラで、ポルトガルからの独立、それに続く内戦への道筋と言うものを終始みていたので本当に描かれている情景が目に浮かぶようで、朝起きると不思議な感覚に襲われた。自分のいるのは何の事はない日常なのだけど、彼の本を読む事によってあらゆる「非日常」を擬似体験する事が出来たのはやはり彼のジャーナリストとしての力量なのだと思う。

著者が作中で述べているが、アンゴラはポルトガルの他の植民地、例えばブラジルと違って、その最悪の影響を受けていたが故に、奴隷貿易による人口減少や貧困などがより顕著であり、そうした背景が内戦の土壌を形成したようだ。他の植民地でのプランテーションに必要な労働力はアンゴラから奴隷船にのって運ばれた人々であり、今でも多く当時の奴隷として運ばれてきたアンゴラ人の子孫が中南米諸国に拡散しているらしい。実際この本を読むまで、アンゴラと他の国例えばホンジュラスなどの関係性を知らなかった。ポルトガルはアンゴラにおいて14世紀以降ずっと「戦争」をしていたとの事であり、それが結局アンゴラ人の労働力の搾取やインフラ建設の土台をなくしてしまった事につながっている、と述べられている。

著者が前線に赴いた時にガイドとしてついてきた女性兵士の話は泣ける。ポルトガル人ジャーナリストクルーと彼は若くて可愛いこの兵士と車で前線に行くまでの時間を過ごす。戦場で見る「美」というものが良く描写されていると思う。たしかmen create the beauty of a womanといった文があった。結局彼女は彼等を前線で見送った直後に敵の攻撃にあって死んでしまう。是を聞いた著者は前線に行きたいと言った自分に罪の意識を感じるが又一方で戦場での命の脆弱性を知る。

彼が冒頭で述べているように、終始彼の個人的な経験が「ひとりでいること」のなかで語られるところにこの本の良さがあると思う。出会う人間との彼との関係性の中で、戦場における人間性と言うものを見る事が出来る。

やっと読み終わったのは是。The Emperor


これは彼の他の作品を読まないと良く理解出来ないものだと思った。

要するになんで彼がこの本で使われている手法をとったのかと言う事が、他の作品を読むとその前提が分かってくるのでこの本の魅力が十分に理解されうる。

エチオピア最後の皇帝が退位するまでの社会の動乱や皇帝自身の生活などを、当時の側近等に語らせる構成でまとめられている。最初は少し緩慢な印象を受けたが、次第に「革命」前夜といったような雰囲気が漂い始める。

是を読むとエチオピア皇帝が排斥され社会主義的な軍やその後に続く政治などは時流からいって必然であったのだと思うが、やはり「象徴」としての皇帝を失ったのは今に続くエチオピアにとって非常にマイナスである気がしてならない。こういったものは一度失われるともう二度と基に戻らないわけで、当時冷戦の流れの中でこうした文化的、精神的な「権威」を失ってしまった事は大きな痛手であると思う。こうして考えて見ると、冷戦の影響は実際アフリカ諸国で色濃く見られる。ベトナムやアフガンなどばかりが語られるが実際に東西冷戦の構図またより長期にわたる影響が見られるのはアフリカ諸国だと感じる。

皇帝最後の日々は非常に寂しいものがある。しかしハイルセラシー皇帝はある意味その皇帝としての威厳や尊厳というものを最後まで失っていないと感じられる。やはり「権力」と「権威」は切り離されるべきなのではないのだろうか。全て彼の手中に納まるわけが最初からなかったのではあるが、現代社会へと突入する世界の中で彼の知っている統治のスタイルが時代に取り残されていく様になんとなく寂寥感を感じてしまう。

とりあえず備忘録までに。

Friday, 14 March 2014

読んだ本等

日々春に向かっていると感じる。


スーパーに行けば菜の花やその他春野菜が出てきているし、春を感じずにはいられない。

私自身もうこの冬の寒さにはうんざりしているが、冬しか食べられないたらの白子とか魚卵系が魚屋から姿を消すことを考えただけで、とても寂しい気持ちになる。特に今年は白子のムニエルにはまり、一時期は毎日食べていたのでプリン体の過剰摂取を気にしていた。

バルサミコソースとの相性は抜群。


と言う事で、もうすぐ確定申告業務も終わるし再びこの会計事務所にも平穏な日々が訪れるだろうと思っている。この確定申告の忙しい時期の雰囲気を感じその中で多少まかされる仕事も多数あったので色々と勉強になった。こうしてみると、多くの人が「フリーランス」で生きているのだと実感させられる。給与取得者も良いけど早く個人事業やその現職の仕事から離れた分野で色々とやってみたいと常に感じる。まあ肝心のやるべき事を見つけるのが一番最初だね。

以前読み終わったThe  shadow of the sunの著者Ryszard Kapuscinskiの本を最近立て続けに読んでいる。手に入る限りの彼の作品を注文してしまったので、今は完全に彼の世界観の中にどっぷりつってしまっている。

Travels with Herodotus は彼のジャーナリストとしての原点を見ることが出来る気がして読んで良かったと思う。


ポーランドに生まれて貧困を経験し、また東西冷戦全盛の時に閉鎖的な社会で青春を過ごした彼にとっては、「他者」「他文化」というものへの興味関心が原動力だったのだとわかる。最初にインドに行って始めて他の国、人間と出会いまた言語の違いや文化の違いなど全てが新鮮で刺激的だったようだ。当時まだ英語が得意じゃない中で色々変なことにも出くわしながら、一人でいるときは英語の勉強のために色々と本を読み出すわけだけど、会社の上司がくれたヘロドトスの「歴史」を時間を見つけては読み始める。

要するにこの本は、著者がジャーナリストとして様々なクーデターや内戦をレポートしながら世界各地を旅する自身と、旅をして色々な人間に会い、他文化を経験したヘロドトスを重ね合わせながら対話するという構成で、彼のジャーナリストとしてのスタイルや哲学的なものの基盤になっていると感じる。

彼が所謂途上国で多くの貧困を目にしても、それほどショックを受けたりせず、その中で真実を模索しようと出来たのも、彼の生い立ちが関係していると思う。彼の戦争中靴を買うお金がなくて石鹸を売ってそのお金を捻出しようとしたエピソードがなける。それまで寒い中でも裸足で生活せざるを得なかった自分の幼少の思い出と、アフリカやインドであった裸足の子供たち、人々を重ね合わせているシーンがあって、このような原体験が他者とオープンに対話できた彼の性格を支えていたように感じる。

自分にとって他者とは何物であるのかということがこの著作の中にたくさん出てくる。他者を通して自分と言うものを知る、というのが彼の作品に徹底して見られる特徴であると思う。

The Otherという彼の講演集を読んだ。短いけど是を読むと多くの作品(まだ3冊しか読んでない。。。)の色々なシーンが良く理解できる。


エマニュエル・レビナスの思想哲学が彼の他者への理解、また見方を裏付けているのだと感じる。

西洋にとって他者とは伝統的にEastであり、またそれを知り利益を得ようとしたのが西洋なわけだけど、又同時に他者を知ろうという積極的な態度、知識体系を作ったのも西洋であるから一概に悪いとも言えないのかもしれない。しかしながら、奴隷貿易や植民地支配などやはりほとんど消すことの出来ない影響を残したのは事実であるからなんとも言えない。

著者の立場は私からすると面白い。Westの人間であるのだけどポーランドと言う歴史に翻弄される場所で育った彼からすると、簡単に自己を西側の人間であるというだけのアイデンティティではないのだと思う。だから、アフリカやラテンアメリカ、アジアなどでで彼が他者に出会うことがまた違った意味合いを持っていたのだと感じられる。

人類学の発展はその「他者」への理解がその根幹であるし、彼もそれを語っている。ポーランド人の人類学者の言葉を引用して[to judge, we need to be there]、実際に現場に行って他者の中に交わる事の重要性を指摘している。それは彼の基本的なジャーナリストとしてのスタンスであるし、それがある意味彼の思想哲学の根本であったような気がしてならない。

最近は専らアフリカ強化月間が続いているが色々ともっと読んでいきたいと思っている。

それにしてもつかれた。明日は寝坊するぞ、、、。




Wednesday, 19 February 2014

大雪の日々の後は、、、

最近の大雪は本当にすごかった。東京でもあんなに雪が降ると私なんかは嬉しくなってしまうけど、山梨など普段あまり大雪に見舞われない地域の被害は甚大である。友人のニュージーランド人が山梨の白州にすんでいるが、とても車が出せる状況ではないらしい。早く日常に戻ってほしいと思う。

最後の記事が10月あたりだと記憶しているからだいぶご無沙汰になってしまった。色々あったけどなんとなく書く事をわすれていたし、あわただしく過ごしていた。


12月に某アフリカの国に行ってからというもの、アフリカの本を読んだり料理を作ったりして結構楽しんでいる。先日は友人を招いて「パン・アジア、アフリカ料理研究会」のは初部会を開いたが、かなり盛況だった。

作ったものは、アフリカからJollof rice



 Doro wat

 Shiro。某国から密輸したシロパウダーを使って作った。



インドから Papdi Chaat。実際パブディ、チャットニーを全部自分で作ったからマジで時間がかかった。

中東からはTabhle でラテンアメリカからはSadine Ceviceをメニューとした。

意外にも好評で全部なくなった。それも神社神道研究会のメンバーが大体男だって言うのもあるかもしれないけど。

アフリカのレシピは色々参考にさせてもらった。こういう日本にない料理を作るとき本当にインターネットのありがたさを実感する。なんだって調べられる。けど材料が手に入るかは別問題。

アフリカに関してはこの本が参考になった。



まあそこまで色々細かく書いてないけど、エチオピアの料理が他のアフリカ料理と一線を画していると言う事は理解できる。というのもやはり独立を保ちその文化形成に食文化が欠かせなかったが故にエチオピア料理がある意味他の大陸でも市民権を得ていると言うことだと思う。

ちなみに脱線して、



を読んだ。色々おぼろげながらではあるがアフリカのイメージが少しずつ頭の中に構築されていく感じがする。

今は、


を読んでいるが、本当にすばらしいと思う。この本は知人が三年前くらいに読んでいたので気になってはいたが、今色々理解できることもあるしいいタイミングで読んでいると思う。著者は詩も書くほどなので文章は至って詩的、文学的である。彼の本は3冊頼んでいるので楽しみだ!

私の趣味は完全に料理になってしまったようだ。

昨夜はカリフラワーを青果売り場で見つけ購入。自宅に帰ってゴビパコラgobi pakoraを作った。そしてなぜか興が上じてチャナダル(ヒヨコマメカレー)も作ってしまった。


仕事の後にたまねぎを切り刻む快感。もしかしたら是に尽きるのかもしれない。



Tuesday, 8 October 2013

A Trip to Atami and so on

先週末は兄の結婚式に参加するために熱海に行った。


最初は泊りがけの結婚式旅行というアイディアにあまり乗り気じゃなかった。わざわざどうして遠くまで出かけて神前式をするのかちょっとわかりかねるところがあったが、結果的に楽しい時間を過ごさせてもらって本当に感謝している。


結婚式は熱海、来宮神社で行われた。ここは国の天然記念物に指定されている大楠が有名で、なんとも言えないひなびた感じがとても良かった。



最近は「パワースポット」としてその大楠が有名らしくて観光客を呼んでいるらしい。確か神々しいその大楠にはパワーをもらえる気がするし、大楠の他にも様々な巨木が境内にたくさんあり、とても良い雰囲気だった。


兄もついに結婚。奥さんは本当にいい人で兄も本当に幸せそうで私もうれしい。色々今回の結婚式&家族旅行の計画準備で大変だったと思う。まあ一生に何回もあることじゃないから、、、I hope!


翌日は家族総出で伊豆山神社へ参拝。こちらは北条政子と源頼朝が契りを結んだと言われる大変歴史の深い神社で多くの人の信仰を集めているとのこと。源頼朝が源家再興の祈願をこの神社でしたと言われており、色々と歴史のロマンを感じることができる場所。それにロケ-ションが最高で、熱海の海を一望する事ができる境内には、頼朝と政子が座ったと言われている腰掛がありなんともロマンチック。ここで天下取りを誓ったのですね。頼朝カッコイイ。

約900段近い階段。でも車で頂上までいけるから安心です。昔の人は随分健脚だったのですね。



私はここで天下取りを誓ったのです(収入アップ等かなり現実的な祈願をしました、、、。)


その後はMOA美術館へ。

怪しいエスカレーターを抜けると、、、、。


そこにはモダンな美術館が。

この美術館の名前は Mokichi Okada Associationの頭文字をとったもので、岡田茂吉が芸術を通して人間性、文化を高めていけるようにとの理想を元に作られたものであるらしい。

岡田茂吉さんと言えば世界救世教の開祖であったわけだけど、元々は東京芸大出身で芸術を非常に愛した人であるようだ。芸術の他にも自然農法等にも傾倒し、世界救世教はそうしたことにも力をいれているらしい。

肝心の美術館であるけど、展示品は主に東洋美術が中心で現代日本アートや浮世絵、仏像など多岐にわたる。黄金の茶室など俗物っぽいものもあるけど、実際結構楽しめる美術館だと感じた。

尾形光琳の自宅を移築したものなど、彼がそうした芸術家に対して非常なる尊敬の念を持っていた事が強く感じられた。

美術館を後にし、最後は刺身定食で旅を締めくくった。



熱海から帰ってきてからちょうど読み終えた本が是。Down And Out In Padstow And London



値段も安かったし、軽い感じで何か読みたかったから手に取ったのだけど、大変笑わせてもらった。と言うのも、昨今のイギリスにおける「フーディー」(Foodie)文化を良く描写しており、かの国でテレビ等のメディアに触れた事のある人間であれば大変面白く読めると思う。

ジャーナリストの主人公がその職をやめて料理人を志して色々なところで修行し、挫折したりするそのストーリーは、グルメブームの中でヤキモキしている人間にとって非常に痛快である。

要するに、多くの人が(特にイギリス等)料理人に対して非常に憧れを持っているわけだけど、実際に主人公が経験する事すべてがその理想、イメージからかけ離れていて、彼はその中で現在跋扈するこのグルメ文化がいったい何なのであるか自問自答する。

こうしたグルメ文化を牽引したのはやはりBBCのMasterchefシリーズだと感じる。その本の中でも散々言われているが、メディアのトレンド形成における役割である。正直日本のメディアにはもうそこまでの力は感じないが、未だにイギリスのメディアはそうした流行を生み出す大きな役割を産業界で担っているガゆえにその重要性、人気と言うのも高いのではないか。


ちなみに英語圏ではCeleblity Chefという人々が存在し、ゴードン・ラムゼー等はその代表格。私は彼がホストとなっているアメリカ版マスターシェフを見たが、結構面白くてはまってしまった。(面白いと言うのは色々めちゃくちゃな事がまかり通っていると言う意味で。)



こうしたセレブシェフという概念をはじめて体現した人はKieth Floydだと言われている。BBCで長い間旅、料理番組を担当していた人で、私は彼が飲みながら楽しそうに、また時に失敗しながらその土地の料理を作っているシーンが好きだ。残念ながら彼は2009年に他界しているけど、彼の人生と言うのは本当に山あり谷あり、成功者として多くの苦悩を抱えていたようで、昔Channel4 のドキュメンタリーで死の2ヶ月前にとられた彼を見た事があるがそうしたアップダウンの激しい人生を生きた事が伺えた。

これはスペイン、ガリシア地方を旅したエピソード。


ちなみにその本に戻ると、主人公がHeston Blumenthalのレストランで修行する事になるのだけど、色々ミシュラン三ツ星のレストランの舞台裏が見れて面白い。

ヘストンは実際独学で料理を学んでおり、自分のレストランを持つまでは一度一週間だけプロフェッショナルキッチンで働いた事があるだけらしい。イギリスが生んだ天才と言われているようだけど、、、。



彼はビクトリア朝等のレシピにインスピレーションを受けながら料理をプロデュースしており、最近はそれがとても評価されている。この記事に詳細が乗っている。

ロンドンにいるときは私も完全にその「フーディー」の一人だったが最近は現在のこうした世界的流行であるフードムーブメント全体に興味がある。まあおいしいものは大好きなんですけど!

Thursday, 3 October 2013

秋の昼下がりに

天気は徐々に秋らしきなって行く。いたるところで秋を感じるこの日常と言うのはすばらしいと思うし、こうした季節感を尊ぶという事は日本人に内在的にあるものなのかもしれない。先月の満月はあまりに美しかったし、帰宅途中茂みから聞こえてくる鈴虫の声も秋を感じさせてならない。スーパーに行けば私の代好きな柿が売っているし、栗も徐々に目にするようになった。食べ物から季節を感じると言うのはとても風情があって素敵だし、何よりも舌、胃袋ともに季節を感じ物理的に満足する事は大切なことだと思う。


季節感と言えば、身近に感じるところでやはり食べ物があると思うけど、今日読み終わった本は私がロンドン在住中から抱いていた疑問にたいして多く答えるものであったので非常に勉強になった。French Beans and Food Scares: Culture and Commerce in an Anxious Ageは現代の食料流通をめぐるある種文化比較を特定の地域、文化圏、また食料品に的を絞って考察している本で、私にとり非常に深く現代の食品流通がいかに文化的、歴史的な要素によって規定付けられているかと言う事を知る意味でためになった。


筆者は帝国主義時代における二大勢力、フランス、イギリスの現代のコマースのあり方がどのように違った発展を遂げて今の消費主義社会に答えてているかと言う事を論じている。

フランスの国家形成が強く地方都市、農民の発展に重点が置かれていたという歴史的事実と、それが旧植民地アフリカ諸国における経済発展を主に農民を抱きこむ形で行こなわれたという事に寄与したと言う事実は非常に重要なポイントであると思う。そうした、農民、ある意味プロフェッショナルな技術、知識を持つものに対するフランス文化の尊敬や自負心と言うもの自体が(metis)、対人間性を重視したコモディティネットワークを可能にしたと言うことであるらしい。未だにフランスのマーケットではそいうした特定の食材に対する深い知識を持つ店主などが多くの尊敬を集めるそうだ。こうしたpeasant-based rural developmentそのものが、フランスの食文化やある種「匠」の文化を支える根本にあると言うことである。

そうした伝統が今のフランスにおける「エキゾチックな農産物」の流通ネットワークに強く見られるとの事。たとえば旧植民地であるブルキナファソなどはフランスに良質なインゲン豆を輸入しているとの事だが、その形態はある種old-fashioned commodity networkである側面が強く、人間関係や信頼と言ったものが生産から輸送にいたるまで大きな意味を持っている。今ではスーパーなども参戦しそうした側面が薄れてきてはいるものの、ひとつフランス語圏の食糧生産や物流を理解する上で大切なスコープとなる。こういる地方、農民の発展が国家形成の中で重要な意味を持ったと言うことは、直接的に旧植民地生産国におけるSmallholdersの活用と言うのものに関係しているということらしい。歴史的に、フランスにとり小規模農家を現代コモディティネットワークに取り込む事は比較的容易だったと言うことなのである。

面白いのはイギリス、アングロサクソン文化圏のコモディティネットワークのあり方である。この筆者の論は私のフェアトレードやオーガニック運動への疑問に多くの答えを与えてくれるものだと思う。

簡単に要約すると、Anglophoneの文化圏では` good practices'` codes of conducts'といったものが持つ意味が大きく、そうした規則、監査が今のコマースを支えている。こうした伝統はcorporate paternalism (instituted by the colonial-era mining companies)に依拠すると言うのであり、こうした規則や定期的な監査というものが実際遠隔統治(govern at a distance)を可能にしていると言うことらしい。

面白い事にこうした規則や日常的なチェック、監査というものが徹底されればされるほど、対人間の付き合いや信頼性と言うものが失われて行く。このようなinternalization of supermarket surveillanceが tyranny of transparencyを産み、より非人間的なコマースと言うのが発展していくと言うことであり、この文脈の中で「サプライチェーンマネジメント(SCM)」という学問領域も発展してきた。要するに、いかに供給ラインの中でリスク、コストを最小化するかと言う点に力点がおかれているのであって、そこにフランスのネットワーク構築と大きな違いを見るのである。

なるほど。ではイギリスにおけるフェアトレード、オーガニック、倫理的ショッピングとはいったいなんなのだろう。フェアトレードに関してはもともとキリスト教の構造的不平等(structural inequality)を是正するところから始まっているようで,イギリスで最も力をもつキリスト教系NGO Christian Aidが政府、スーパーマーケットなどの小売業者に働きかけたところから一気に広まるようになった。またイギリスメディアがこうした国民の意識の形成において大きな役割を担っており、そうしたメディアを抱き込んでのキャンペーンが「フェアトレード」などのethical shoppingをメインストリームに押し上げる事に大きく貢献したのである。

結局オーガニック認証にかんしてももともとSoil associationがはじめたある種「認証ビジネス」の構造と言うのがフェアトレードなどにも影響しているのであって、こうした認証組織は政府や大手小売業者の利権と強くその結びつきを持っているのであり、要するに冨とパワーの問題に収斂してしまうと言うことがあるだろう。実際そういった倫理的、環境的な基準と言うのが、旧植民地国の生産者を新たな形で統治する事、強国の要求を押し付ける事につながっていると言える。たとえばChild laborに関する疑問も、その是非が本当の意味で議論されているとは言えない。果たして児童労働の禁止が子供たちのより良い生活、教育へのアクセスを可能にしえいると言えるだろうか?単なる先進国の驕りや偽善に終始していないだろうか?

イギリス人のこのFoodie cultureというものは結局こうしたイギリスの旧植民地国とのコモディティネットワークの中で形成され、維持されているに過ぎないのであると思う。だからどことなく地に足の付いていない印象を他の国の人間には与えるような気がスル。

又、こうしたアングロサクソンネットワークにおいては、小規模農家というものが見過ごされがちであるし、もともとconsolidationが効率化を高めると言う思想がある中においてはsmallholder schemesというものがなじむとは到底言いがたいのである。こうしたアングロサクソン国における地方発展と言うのは本当の意味で可能であるのか自分は本当に疑問を持っている。

今考えてみればイギリスにいたとき、常に食べ物番組、ドキュメンタリーを目にしていたと思う。そうした番組の数々は要するに消費をあおるものでしかなく、いかにイギリスメディアが経済界とつながっているかを知るにいたる。BBCなんかも、結局「食を通じたライフスタイルの提案」というようなことを積極的に推し進めてるように思えるし、書籍の出版やセレブリティシェフとタイアップした商品などをスーパーで良く目にした。すべてはこうしたイギリスのコモディティネットワークと言う中である意味独自の発展を遂げているように私には写る。

アフリカはそういった点において本当の意味で強国のイデオロギーのかなで大きな犠牲を強いられていると思う。EUとアメリカ、またイギリスなど、たとえば、遺伝子組み換えの問題(transatlantic GM battle in Africa)でも国際政治の中でがんじがらめにさせられているようで胸が傷む。しかしながら、こうした開発学的問題と言うのは植民地主義の歴史やその遺産をいかに精算するかという事が大きなボトルネックになっている気がしてならない。歴史は変えられない、では我々に何ができるのだろう?

この手の本は他にもあって、たとえば
The Noodle Narratives: The Global Rise of an Industrial Food into the Twenty-First Century
Cheap Meat: Flap Food Nations in the Pacific Islandsが近いものがあると思う。まあ現代においてはフードスタディは結構はやりだからあれだけど、なかなか面白い論を言える人がいない気がスル。なんとなくいつもネオリベラリズムや植民地主義の歴史、またネオコロニアリズムにかんして言っているような気がしてならない。それ言っちゃおしまいよー的な感じがしないでもないんだけど。。。。





そういえば最近読んで色々と納得したころがあったのはこの本の存在を知ってから.Taken: Exposing Sex Trafficking and Slavery in India 



こういう現実があると言うことははやり同じ女性としては考えさせられること多い。そんな中で、THE QUEENS DAUGHTERS IN INDIAという1892年にかかれた文章を読んだのだけれど、ちょっと色々ショックを受けてしまった。こうした現在にも続く人身売買、売春などの事象はイギリス植民地統治時代より構造的に形成されたものであると言うことはある種衝撃で、軍の士気を維持するために現地の女性を調達するということを組織的に実行したと言う事実は、植民地政策を知る上で大切なことだと思ってしまった。まあ要するに性病の蔓延をコントロールするために公衆衛生に関する法律を整備したりしたということは非常に興味深い。まだ途中までしか読んでないけどこれもイギリス植民地主義の暗部を知る意味でも私にとって勉強になる。

こうして考えてみると、コモディティネットワークでも現代の諸問題もやはり18,19世紀に端を発しているケースが多いように感じる。

もっと色々書こうと思ったけど、とりあえずこの辺で、、、、、。