Thursday 25 July 2013

菜食主義あれこれ

いつも時間ある時に聞いているラジオ番組と言えばBBCのFood Programで、先日聞いたエピソ-ドはヴィ-ガニズムに関してだった。ヴェジタリアンより厳格な食事制限をしている事が特徴で、要するに動物が関与した食料品を口にしない、接しない。また動物由来の洗剤やシャンプ-なども使わないのが本当のヴィ-ガンライフであるようだ。蜂蜜だって禁忌のひとつ。確かに蜂蜜こそ蜂の労働力の搾取であるわけで。。。。

エピソ-ド中、色々とドイツではやり始めているヴィ-ガンス-パ-の話や私が個人的に好きなニュ-ヨ-クタイムズ紙のMark Bittmanもインタヴュ-に答えていて面白かった。日本だとヴィ-ガンってあまり一般的ではないけど、最近欧米を中心として、生活のある意味一つの選択肢になりつつあると言うことが言われていた。ヴィ-ガンス-パ-でも半分近くの客は実際ノンヴィ-ガンであるらしく、消費者のヴィ-ガン的思考、生活への理解を伺わせる。

ヴィ-ガンではないにしろ、私はロンドン留学中菜食主義やその他の食に関する「主義」というものに関する事象をテ-マに修士論文を書こうかと思っていた程ある意味熱中してあれこれ考えたり文献を読んでみたりした。こうした事も、日常的に感じていたことがきっかけである。たとえば、日本のス-パ-だとありえないことだけど、いちいちロンドンのス-パ-に行ってミ-トセクションに行けば「オ-ガニック」「フリ-レンジ(定義は曖昧な所があるけど、要するに動物が自由に動ける環境を保証する事が基本的考え)」「コンヴェンショナル(要するに従来型の飼育によるもの)」の三種類のチョイスがあり、鶏肉を買うだけでも、私にとっては思考的に非常に難儀することであった。

当然オ-ガニックが一番高く、フリ-レンジがそれに続くという形で、いかに自分が特定の農業方法、飼育法、安全性を支持するかと言うアル意味踏み絵のようなものであり、私にとってこの「クラス」を常に意識させられる日常のショッピングというのが非常に苦痛であった。この値段の違いは、飼料の質や化学肥料などの要因もあるが、事肉類に関して言えば動物が飼育される過程においていかに苦しみを軽減させられ、「humane」なやり方で取り扱われているかと言うことが大きな意味を持つ。実際、多くのドキュメンタリ-や書籍が工業化、産業化された農業、畜産業の劣悪、残酷な現状を告発してきた。


たとえば、Eating animal はヴェジタリアンの著者が畜産業に関する実態を、文学的とまで言わないがより感情や感性に訴える手法で描いており多くの読者を持ったようだ。私は是を読んで、単純に面白いと感じたし、我々人間が無条件に他の動物の命を奪ってなんらの道徳的疑問や葛藤を持たないのはおかしいと思った(と記憶してる)。



多分フ-ドチェ-ンの天辺にいる人間はそうした権利があるのかもしれないが、多くの支持を得ている識者が非難していることは、高度に産業化された生産システムが動物への不必要な虐待をまねいていると言う事。ここらへん面白く描いているのは有名なドキュメンタリ-Food Inc,.だと思う。私たちが食べている安価なハンバ-ガ-の、ナゲットの裏には何が広がっているのか、というのがよく分かる。



主観性を排したドキュメンタリ-でよいものはと言えば、Our daily breadで、やや単調であるが着眼点は、人が生きる、また食べることがいかに密接につながっているかと言う事であると思う。生産者、またはそこに従事する人々の仕事後の食事風景を必ず映すところがポイント。人は食肉工場で豚や牛を屠殺しても必ず「一食」というのは取るのであって、要するに生活がある、と言う事を実感させられる。至極当たり前の事のようだけど、実は色々な個人の「常識」や「感情」というのは現実を直視する事を少し困難にさせ得るのだと思わされてならない。生きるためには食べなければならない、というシンプルな事実を食料品生産者の目線から理解することができると感じた。



話は脱線したが、私はこうした欧米での動物福祉の考え方、地球環境破壊への努力を日常生活で感じられたがゆえに、生き方としてのヴェジタリアニズムと言うものに非常に関心を覚えたのだと思う。畜産業が発する二酸化炭素の量と言うのは莫大であり、今後増え続ける人口に伴うたんぱく質、肉食に対する需要と言う事を考えると非常に難しい問題をはらんでいると思うし、国連でさえ今は菜食が地球環境保護へ貢献するといっている。こういうのを環境菜食主義と言うらしい。

現在では「ラボ」ミ-トの研究が盛んに行われているらしいけど、やはり人類が動物へ依存した食事というものからの離脱をするための第一歩なのだと思う。まあこの手の議論は、やはり欧米からしか出てこないと思う。それも長い畜産業、というか食肉の歴史がそうさせるのだと思う。


「肉食の思想」という本を読んだけど、家畜を飼う事が当たり前の社会において、いかに現代に息づく生活上の「禁忌」と言うものが形成され、キリスト教が人間と動物を区別するために絶対に必要な要素であったかと言うことがかかれていた。キリスト教は人間を動物より高次なものとして位置づけるための理論的支えとなったし、結婚と言う社会システムが動物と人間を分かつ大切な制度だったとかかれている。要するに、家畜を飼っていると「性」というものが日常的なものであり、血がつながっているもの同士の性行為なんて言うのも当たり前。こうした動物の「自然すぎる性」というものと明確に人間社会を区別し、結婚外の性を認めず、また近親相姦等のタブ-を作る事によって、人間の優位性を明らかなものにしたのである、らしい。




その点、日本を含めアジア社会はそもそも放牧に適する地理ではない。牧草地なんてものはなく、緑は基本的に雑草。その著書に出てくるが、ヨ-ロッパに雑草はない、という言葉も牧畜の観点から非常に正しいと思う。いつかスイスの車窓から見た果てしなく続くように思われる牧草地を思い出す。アジア圏では基本的に階層的に動植物を捉えているのではなく、「調和」する事に非常に意味がある。日本の神道なんてまさに典型であると思われるし、動植物を人間から区別し優位性を確保する必要性もない。まあ今の日本の食生活なんて欧米型になっているからそういった西洋における肉食に対する葛藤なんてものをすっ飛ばしてグルメの領域に入ってしまっているからなんとも言えないね。


こうした西洋の肉食への思想的な葛藤と言うものが、いかに東洋に出会い激しくその肉食を是とする西洋社会が思想的に挑戦を受けたと言うことがよくかかれているのはThe Bloodless Revolution: Radical Vegetarians and the Discovery of India であると思う。まだ途中までしか読んでいないけど、大航海時代以降西洋が東洋、インドと出会い、それまで菜食にたいするさまざまな議論や批判を続けていた知識人たちが、見事に思想的に菜食が息づいているインド社会を目の当たりにして、東洋の「思想的優位性」を考え始めたということがかかれていたと記憶している。まあこうした事も時間のある今もうちょっと深く掘り下げてみたいと思う。今読んでいる本を読み終わったら早速また個人的菜食主義研究を続けたいと思う。




世界には様々な菜食の食文化があるが、私にとってやはり人口の半数が菜食主義者だというインドにおけるヴェジタリアン料理というのが非常に魅力的だし、またおいしいから大好きである。日本にも精進料理や、台湾の素食などがあるが私はやはり南インドの料理やグジャラ-ト州の食文化に非常に関心がそそられる。

南インド料理はとにかく、ラッサムといった辛くてすっぱいス-プや、野菜が沢山はいったサンバル、また米と豆が主材料のド-サが有名でそのほかにも私の知らないおいしいヴェジタリアン料理があるに違いない。
ラッサムは中毒性があるから本当に恐ろしい。


ド-サは中に辛いポテトフィリングがはいっているマサラド-サが好み。食べたい!


だんだん力尽きてきて食の話になってしまうが、やはり現代においてその菜食主義の重要性、また可能性は無視できないものになっているし今一度動物の命を頂くと言うこと、それが地球環境に意味する事を考えることが大切なのではないかと思う。

多分今夜はまたインド料理を作るだろうな、はまりすぎ、、、、。










Wednesday 17 July 2013

スパイスを探して IN TOKYO

ロンドン留学中でよかったことのひとつと言えば、やはり多様なナショナリティ-を見れたことである。特に私の住んでいたエリアはアラブ系が多くていつもハラ-ルショップで色々と面白い食材を買ってはキャビネットにいれて来るべき料理の時に備えていた。

エッジウェアロ-ドはロンドンでもある意味面白いところだと思う。昼間から水タバコをふかしたアラブ人っぽいおじさんがお茶を飲みながら談笑しているところをよく見かけた。何の仕事をしているのか、どんなビザでロンドンにいるのかいつも不思議でならなかった。




多分こうした私の中東料理への関心は、南西アジアを大学で勉強した事、アラブ人エリアに住んでいたこと、そしてロンドンではやっていたおしゃれ中東料理の第一人者Yotam Ottolenghiの影響のせいだと思う。まあロンドンに行ってからと言うもの、ほとんど毎日、と言えば御幣があるが毎日に近い頻度でヒヨコマメのペ-スト、フムス(発音は結構地域によって違うみたいだけど、ロンドンでは「ハマス」に近い発音だった気がする。アとウの間のような。)を食べていた。色々なス-パ-のハマスを試した。個人的にはウェイトロ-ズノのオ-ガニックハマスが好きで、そのほかロ-ストオニオンハマスやペリペリ味ハマスなどよく食べた。好きすぎて、留学して一番初めに買った電化製品はハマスを作るためのフ-ドプロセッサ-。しかし粗悪品過ぎて音がおかしいくらいに大きい。騒音問題に配慮しながら作るハマスの味は格別だったが。

実際ハマスを売っているもののように作るのはかなりの勇気がいるし、配合を分からないと作れないと感じる。要するにものすごい量の油とごまぺ-ストを使う。よく日本で売っているのを見かけるがクリ-ミ-さが足りないと思う。オットレンギはこのタヒニを薦めていたっけ。もちろん私も愛用した(している)。



中東と言うか、南アジアなどの料理のすばらしいスパイス文化は私を魅了してやまないのであって、食べるもの作るのも好きだ。やはり日本のように素材のすばらしさに依存した食文化が見られる国においてはスパイスやハ-ブといったものの重要性はあまり高くないのだと感じる。イタリア料理なんかもこういった部類に属すると思う。だから日本人の異常なまでのイタリアン好きは納得できる気がする。それに肉を常食する民族においてはスパイスは欠かせないし、実際私も肉料理を作るときはスパイスがないと物足りなく感じるし、塩コショウでは食べていても楽しくない。まあ個人的な好みである訳だけど。

とにかく帰国してからと言うもの南アジア、中東食材屋をめぐるのが休日の楽しみにもなっている。

なんとなくやばさを感じつつ、上野に行くといつも必ずよってしまうのはアメ横センタ-ビル。独特のにおいが異国情緒を演出。






歯医者の帰りに必ずよっては中国語、韓国語でしゃべり掛けられながら買い物。大体コリアンダ-はいつも買ってる。

仕事の後に行ってみたのは新大久保。コリアタウンとしてあまりに有名だけど、最近は少ないけど南アジア系の食材屋もあるよう。


なんだかロンドンの町を思い出してしまうほど匂いとか雰囲気が似ていた。同じような商品を扱っているから当たり前なんだけど、定員は流暢な日本語を話している時点でここは日本だと再認識。行ったとき、南アジア系の定員が南アジア系の商売敵と日本語でビジネスに関する不満をぶつけ合っていた。「あなたは儲け過ぎだから、こっちは商売にならない、値段を下げなければ公平じゃない」とかなり込み入った内容。共通に話せる言語は日本語?

会社の近くにあって、大学時代からよく行ってたのはアルファラ。こちらは清潔感があって買い物しやすいと思う。大体ここでたいていのものがそろうから便利。





人の移動とともに食材もこうして旅をしてくるのですね。私もロンドンにいるときはよく三越の中にあるジャパンセンタ-にいって醤油買ったりペットボトルのお茶買ってたっけ。

大体仕事の後家にいるときは料理をしてストレス発散しているが、昨日はチキンカレ-とプラ-オを作った。チキンカレ-は丸鳥を買ってきて裁くところから始まったので、時間がかかってしまったがやはりカレ-は骨付きに限る。昨日作ったのはこんな感じ。ポイントはカシュ-ナッツをペ-スト状にして投入する事!




インド料理のレシピってインタ-ネット上にありえないくらい乗ってるから、作り方を知るのはさほど難しくないと感じる。

私はヴぁ-シェフのユ-チュ-ブ画像見るのが、カレ-つくりの前の儀式となっている。もちろん爆笑しまくり。カレ-作りはかくも楽しいのである!(ビデオはタンドリ-チキン)



東京には色々な「リトル~」があるようです。


Monday 1 July 2013

半分寝た頭で考えた事

以前マイケル・ポランの新著Cooked : A natural history of transformationを読んだ話を書いた気がするが、最近それに影響されて清水買い(私の姉等は衝動買いする、高額なものを買うことをこう表現している。一般的?)してしまった本が是、The Art of Fermentation。この本はポランの著作にも出て来るけど、実際きっかけは去年アメリカ旅行した時に立ち寄ったワイナリ-兼ファ-ムを訪れた時に発見したもので、ずっとほしいと思っていた。誕生日に自分へのご褒美と言う事で買ったわけだけど、何せアメリカから頼んだから来るのに数週間かかった。まだ中身をちゃんと読むにいたってないが、辞書的にゆっくりよんでいきたいと思っている。


最近は以前買った本を消化する日日であるけど、読み終わった本の中で色々納得して読んだのはJulie Guthmanの著作で、その後彼女の名前で論文を数本読んだけれど非常に興味深かった。カリフォルニア大学サンタクル-ズの教授で色々とオルタナティブフ-ドムーブメントに関して論文書いていて、大学院で関連する分野を勉強していた私としてはまさにどんぴしゃの内容。私の解釈としては、現在アメリカ等で見られる肥満問題を単純に貧困問題や経済格差の問題、民族問題に落とし込むのではなく、もっと大きな枠の中で現在のファ-ストフ-ド経済がいかに形成され、また行き場のいなくなった資本主義が今度は人間の体というものにその拡大の原理を適応させていくという視点なしには、世界的潮流を理解する事はできないと、言うものである。彼女の著書でカリフォルニアにおけるオーガニックフ-ドムーブメントに関する本も面白そうであるが、関連する論文を読むことができるので購入はしない。要するに、実際に「オルタナティブ」をこうした資本主義社会の中で本当に獲得できるのかと言うことが、彼女の論文等が与える命題であって非常に私としては懐疑的、というか難しい問題であると思う。基本的に現在の社会構造が純粋なる理念の追求としてのそういった運動を可能にさせるとは到底思えないのであって、私個人としては結局「自己実現」「自己満足」「自己プロデュ-ス」の域をでれないのではないかと考えている。

彼女の短い文章で面白かったのがCommentary on teaching food: Why I am fed up with Michael Pollan et al..私が抱いてきたポランや現代の「賢い」フ-ディ-文化に関する疑問をかなり正直にまた学術的に明らかにしているもので、読んでいて思わず、まじわかるわ-、と思ってしまった。ジャ-ナリストだからしょうがないかもしれないが彼の書いてる事って、結局彼個人の個人的、懐古主義的な発言に過ぎないのであって色々な学者や思想家の意見や論理の羅列でしかない気がしてきてしまった。その点、学者の文章は引用がはっきりしているのでこちらとしては読みやすい。私がネイティブ英語話者だったら違うのかもしれないけど、最近彼の著書に関する自分の評価は下がってきていることは否めない。結局彼が提唱するように倫理的、知的フ-ディ-になっても、誰も何も救わない気がするのである。ただ現実に見る社会格差や社会問題を知的な消費主義を実行する事によって何も変えることができないのではないかと、最近やや現実的な視点を身に付けつつある自分がいる事に気がつく。


そうした事を背景に日本を考えてみると確かに日本におけるファ-マ-ズマーケットは所詮海外の模倣でしかないと思うが、その反面新たにそうした輸入の概念や運動に頼るまでもなく日本のロ-カリズムや食に対する安全意識と言ったものが市民生活に根ざしている事を実感する。私は週に一回は必ず行っている地産マルシェは本当に面白いシステムであると感じるし、あそこに行って面白い、また新鮮な野菜に出会った時のわくわく感ったらない。要するに小規模、また中堅の農家のネットワ-クをつくり流通システムを確立する事によって消費者に安価で新鮮な野菜を提供するところにその意義があると思う。たまにイギリスでよく目にしていた野菜、スイスチャ-ドやエルサレムア-ティチョ-クをみると反射的にかごにいれてしまう。いつも同じものがあるわけではなく、季節や農家の出荷状況で商品が変わるところに私は強く魅力を感じている。


昨晩眠れなかったせいで書いてる事も脈絡がないものになってしまった。睡眠は大切ですね、、、。