Saturday, 24 May 2014

読んだ本 などなど そして「ありのままで」

先日図書館で借りたこの本は、今まで色々疑問に思っていたコーヒーに関する様々な事象を独特の語り口で説明しており非常に面白くまた勉強になった。


この田口護さんという方は「カフェバッハ」という自家焙煎珈琲店のオーナーであり生粋の「珈琲人」であるようで、戦後から現在の「from seed to cup」という世界的な流れをこの本の中で説明している。

なんでも日本で珈琲の焙煎やドリップ方法等が発展したのも、戦後はオールドクルップと言われる古い生豆しか手に入らず、そうした日本がおかれた流通(経済力)の現実が技術力の向上に結びつくきっかけとなったようで面白い。ある意味「酔狂」な人々が珈琲のこうした「淹れ方」を研究した結果日本が現在誇るドリップコーヒーの技術や器具が誕生した、という事らしい。ちなみにこの「ハンドドリップコーヒー」という表現は日本独自の表現であり、英語ではpour over とか言ったりする。何でもドリップという言葉は「肉汁がしたたる」という意味合いを含んでいるようで英語では珈琲に使われる言葉ではないらしい。

エチオピアのコーヒー加工工場でみた方法は主に「washed」と言われるもので、最近は「クリーン」な味を体現する方法として多く採用されているようではあるが、この本を読んでいるとウォッシュド方法は水を大量に使うし、あまりにもクリーン過ぎて豆が持つ個性が失われる傾向も有るという。しかし、高値で取引される事は事実で、こうした加工方法がスペシャルティーコーヒーに付加価値をつける一つの要因であるとも感じる。

筆者も述べていたけど、他の嗜好品、例えば紅茶とかお茶とかに比べると格段に複雑で、焙煎、淹れ方によって多くの違いが出るものがコーヒーである。朝飲む一杯のコーヒーが来た道というのは限りなく「旅」のそれに近いものが有る。

コーヒーの流れはざっとこのようなものらしい。

まずpickerと言われる人々がコーヒーチェリーを採取する。気の利いた組合等はこうした「とるべきチェリーの図」を掲げているが、所詮重さで日銭を稼ぐ人々にとってこうしたチェリーのピッキング指南はあまり意味をなさないのかもしれない。


コーヒーチェリーの運搬はかくも重労働である。

ちなみにこれらの写真は某国を旅行したときのもので、今思えばもっととっておけば良かったと後悔する事しきりである。

このように緑のチェリーも混ざっている。筆者によればこうした未成熟のチェリーが混入する事によって最終的なコーヒーの品質に大きく影響するとの事。

チェリーは美味しそうに見える。しかし、そこまで美味しいものでもなかったな。

果肉をとるために専用の機械に入れられ、

勢い良くまわるモーターによって果肉とコーヒービーンに分けられる。

この時出る果肉は大量であり、面白い匂いを放っていたのを思い出す。あれは発効臭であったような気がする。肥料にしたりするみたいだが、実際のところどうなのだろう。

確かこの後は専用のタンクに入れられ、発酵させるようだ。

見て通り、大量の水がないと成立しないのがこの加工法だ。ちなみに同じ組合で、naturalと呼ばれる天日干しのコーヒーもみた。やはり現実的には、ナチュラルというある意味「エコフレンドリー」な製法が継続されているということだろう。

数多くのタンク。日本人で潔癖の人はこうした「薄汚れた」タンクをみたらコーヒーを忌避するかもしれないと、現地で感じた。

そして発酵が終わったらこのように男力で豆を洗う、というかなんだろうか。重労働だ。


靴も履かないで作業する人々。ここは確かスターバックスも認めかなり有名な組合であるのに、働く人々は皆慎ましい。これを撮っている時、一人の組合員に「食べ物がないから金をくれ」と言われた。これを発見した「上司」が彼を叱責し、彼を端に追いやったのは印象的だ。きっと外国からの「お客様」に対して体裁を整える事で必至だったのだろう。

このあと天日に干して欠点豆を取り除いたり様々な行程を経て流通の経路に乗る訳だけど、ざっとこうして加工一つとっても様々な要素が求められるから、コーヒーというものは大変だ。

ちなみにこのコーヒーは頂き物で、エチオピアSidamo Natural。ここの珈琲店のスタッフが言っていたが、エチオピアの豆はある意味品質にばらつきがあってそこまで高い評価を受けている訳じゃないらしい。コーヒー原産国であり国内産業もこの農産物に頼っているのにこうした中途半端な評価しか受けていない事に悲しみを覚える。

ちなみに私はコーヒーミルを持っていない。



店員さんが目の前で豆を焙煎してくれたが、意外にも早く焙煎が終わるので驚いた。私は初めて聞く「ハゼ」音が非常に心地よく響き感動さえした。私もこうした仕事に携わりたいな。

そういえば、こうしたエチオピアの農産物について調べてるとどうしても行き着くのが「エチオピアコモディティエクスチェンジ」という機関で、某国での旅でもバイヤー達が多くこのECXという単語を口にしていたのを思い出す。

このテッドトークでエチオピアのこの機関が話されていた。これってあまり古くないみたいね。

こういう機関が現実的にどのような利点をもたらすかは相当議論されているところだと思う。

某国にいく前に色々この機関について調べたがネガティブな評価が目立ったような気がする。
色々コーヒー関係の人の論文が出ているみたいで勉強になる。Ethiopian Coffee buying Manualとかも色々ベーシックな知識を得るのに役立った。こういうのもちゃんと発行しているすごいと思う。
この論文も某機関に関する事をかいてあり勉強になる。

こんなのもあったな。

こんなビデオも。

疲れてきたので寝る前に昨日母親と見た英語のおさらいをして、、、、。


ディズニーはやっぱりいいすなー。

Wednesday, 14 May 2014

読んだ本あれこれ

忘れないうちに最近読んだり見聞きしたものを書いておこう。

昨年以来アフリカ、エチオピア関係の本は見るようにしているが、この本は友達から勧められた。

このシェフの事は以前からおぼろげながら知っていたが、今回この本を読むにあたって彼の生い立ちや、幼少期からの文化的接触が今日の彼の成功を支えているのだとしる。

かの国に行った時、コーディネーターの人がエチオピア生まれなのだけどスウェーデン育ちだった事を思い出す。この本によれば彼もそうしたエチオピアから孤児としてスウェーデンにおくられた子供の一人であるらしい。実の母親は残念ながら結核により亡くなっているようだが、彼はいつも母親に会える方法を知っているという。それはエチオピアのベルベレというスパイスであり、その匂いを感じ料理する事によって遠い場所にいる母親の事を近くに感じるという。ちなみにベルベレはこんな感じ。



ただ辛いという感じでもなく、色々複雑な味がするから不思議だ。エチオピアでは基本的にこのスパイスミックスが大量に使われて、様々な肉や野菜の煮込み料理が作られているらしい。某国で仕入れてきたベルベレで何回もチキンの煮込みドーロワットを作ったが、結構好評だった。というのも大量にタマネギを使っているから、スパイスの辛みがタマネギで中和される感じで非常に食べやすい。

さて。

先程のシェフであるが、所謂「セレブリティーシェフ」として有名らしい。実際彼がそこまで有名だった事は知らなかったが、何となく調べた感じだと、あまりエチオピア料理と関係がなさそうな気がしなくも無い。

料理と言えば、最近読んだ黒田勝弘氏の「韓国を食べる」にはとても笑わせて頂いた。



韓国に20年以上記者として生活した、著者の韓国の食べ物を中心とした韓国文化、人の観察が非常に興味深く面白かった。

韓国料理と言えば、プルコギ、ビビンパ、焼き肉、最近だとサムギョプサル位しか思い出せない私であったが(もちろんキムチもね。)、この本を読んで韓国の食文化というものを色々な角度で知る事が出来て面白かった。

日本に近い位置に有りながら肉食が好まれる背景としては、モンゴル帝国の影響が大きいのだという。筆者によれば、韓国料理の神髄とは「肉のスープ」であり、焼き肉等は比較的新しく根付いた文化なのだと言う。肉のスープというのは色々骨や身を煮て、そして家族や共同体で食べるものであり、こうした「肉のスープ」の匂いを筆者は語学留学時の下宿生活か如実に感じているようだ。

著者の指摘している韓国人の「精力信仰」というのも面白い。韓国は儒教の国で現世利益的な思考が共有されており、この精力信仰というのもこの現世を精一杯生きる事への現れであるようだ。韓国の「犬食」というのもこの「精力信仰」からくるものであり、多くの人が考えているような日常食では決してない。こうした食文化は往々にして諸外国から文句を言われるというのは決まっているが、ある種日本の捕鯨文化にかんしても同じ事が言え、興味深い。だいたい、ある特定の食文化を否定されるのは人々のナショナリズムを喚起する契機となることを西洋人は知っていた方がいい気がする。食文化に「理性」「理由」を求めるとややこしい事になるのは、もう周知の事実であるのではないだろうか。

私はこの本を読むまでは、黒田勝弘氏の事を誤解していたようだ。産經新聞だし、だいたい「嫌韓」の人だと思っていたが、彼の韓国人の観察、描写にはどことなく優しさ、愛すら感じる。この本を読んでいると、こんな風に面白く、また鋭く文章が書けるようになればなと思う。

食べ物の本でここ数年ずっと読んでいた人と言えば小泉武夫氏のそれであろう。

読んだ本はもう結構あり、思い出せないものもある。例えば、






等等、多数ある。

基本的には発酵学の権威であるため、発酵食品に関する内容が多いが、小泉氏の食に対する愛情、情熱といったものが作中にあふれている。やはり強靭な胃袋を持った「発酵仮面」は尊敬に値するし、文章も日経の夕刊に連載されているもの等は本当に読みやすく、堅い日経新聞のオアシスのような存在だと、購読時はよく感じたものだ。

ただ、一人の作者の本を読み続ける事によって、同じ話に出くわす事が多いのが難点だ。やはり先生のように数多くの著作をもつ人は話がオーバーラップしてしまうのは仕方のない事だろう。私は先生の本を読む度、「ああ、私も先生のように沢山、そして色々な日本の、世界の食にであってみたいなあ」という気持ちを持ってしまう。

やはり食の権威といえば、辻静雄先生の本を外す訳にはいかない。

辻先生はかの有名は辻調を一流の調理学校にした方であり、また日本のフランス料理のレベル、また人々の認識を形成する上でなくてはならない人である。

「舌の世界史」から始まり、






等、今何を読んだか思い出せないものもある。ただ、辻先生の文章は学者のそれに近く、いやむしろ学者でありまたジャーナリストの視点も見せてくれる非常に印象深いものであると感じる。実際、奥様と結婚されるまで新聞記者として活躍されていたという事なので、ジャーナリストである事は間違いがない。それにフランス語の深い知識や、その探究心等は日夜フランス料理、またワインの研究をされたその事実から明らかである。

私は「舌の世界史」が改めて読み返してみると素晴らしいなと感じるし、氏が経験された時代、またレストラン等に思いを巡らせてしまう。氏が、今現在世界で流行っている、例えば「エルブリ」や「ノマ」等の料理を食べたらどのように批評されるだろう。想像してしまう。

食を文学者として面白く描写されているのは池波正太郎先生だと思う。「散歩の時に何か食べたくなって」は有名だが、昨年読んだ


「食卓の情景」はとてもよかった。氏が日常召し上がったものを始め、家庭での事等食卓を巡る「情景」を描いたもので心に強く残る本だったとおもう。氏の幼少期の好んだ食べ物の話や、食と結びついて思いだされる人々の生き様、喜びというものが目の前に浮かぶようで、時に涙を誘う。こうしてみると、氏の時代から色々失われた食文化と言うようなものが有るような気がしてならない。まあ、私は下町の人間ではないから共有出来ない、もしくは想像のできない文化というものも有るのかもしれないが。

つい食に関する本を手に取ってしまう癖は治らないようだ。

今夜は何を食べよう。