Wednesday 27 August 2014

自衛隊総合火力演習など

先週は色々と忙しい日が続いた。土曜日には以前から知人らと約束していた、自衛隊総合火力演習にいってきた。

朝6時半に待ち合わせして、いざ富士山の麓へ。実際あんなに間近に富士山をみたのは初めてで色々びっくりした。富士山はやはり遠くから見た方がきれいかもしれない。上るのは想像しただけで大変。


会場に行くまでも一苦労。ものすごい人がいるし、天気が悪く開始前からぱらぱらと雨が降り始めてた。あろう事か雨合羽も忘れて、最終的には3時間も冷たい雨の中にいる事になったが、思い出深い日になった気がする。

たくさん自衛隊の人がいるし、ミリタリーオタクみたいなのもいて、会場の雰囲気が面白かった。普段私みたいな人間にとっては自衛隊は遠い存在だし、何となくミステリアスな趣もある。やはり警察と違って「捕まる」っていう恐怖心がないからかな?(別に何も悪い事してないけど、、、。)とは言うものの実際高校生のとき防衛大学校受験してるんだよね、、。

訓練には本当にびっくりした。総合火力演習は唯一の実弾演習らしく、戦車やヘリコプター等々「撃て」の号令でボンボン実弾が飛び交う光景というのは、ある種以上な興奮を換気させるものだった。私はいちいち「きゃー!」というらしくない叫び声を上げる程爆音にびっくりしていた。


前段と後段に分かれていた構成も良かったと思う。前段で戦車など個々の説明、そして後段では実際の作戦を模して行うというもので、なかなか見せ場があり私みたいな全くミリタリーに興味ないものでも興奮して見学する事が出来た。

ただ、前段の最初では霧がすごくて標的が見えず自衛隊員の「目標発見できず!」の声に会場に笑いが起こったりした程だ。まああの霧や雨の感じが変に「実戦」的な様子を醸し出していた気もする。

終わった後はお土産を買ったり、戦車に近づいて写真を撮ったりと時間を過ごした。

こうして考えてみると、こうしたものが「訓練」の域をでない事を本当に望むということで、こんな爆音が日常になったら本当に毎日が地獄だと思う。今世界的に色々情勢が不安定でそうした日常に向かわざるを得ない人がいるという事はある意味本当の悲劇だと感じる。

日曜日はボーリング&ビリヤード大会。ボーリングはまさかの優勝で気分が良かったな。ただビリヤードはちょっと練習しないとだめだ。むかしビリヤード漫画を読んでいたから知識だけはあるけど、実際にプレーした経験がないからだめ。あれは本当に知的なボールゲームという感じがする。それにゴルフも暇な時間があれば最近は練習しにいってるから意外とスポーティになってきてる。こうして考えると球技というのは本当に奥が深い。ゴルフなんて止まってるボールを打つから簡単だと思いきや、練習と忍耐を必要とするスポーツだと思う。高校生の時一年間授業でゴルフを選択してたから多少の経験はあるものの、やはりプロにレッスンを受ける事によって学ぶ事が多い。まあ地道な練習道が始まったという感じかな。



先週はなぜかパナマ大使館の人らと食事する機会があり色々お話が聞けてよかった。とにかく気さくな人達で緊張してたけど楽しめた。

食事は最近銀座ではやってる小龍包のお店「パラダイスダイナスティー」。

カラフルな小龍包で人気。


この手の食べ物は暖かくないと美味しくないと思う。すぐ冷めてしまうから食べる時は真剣。この中でマーラー味、かにのやつが美味しかった。

パナマのコーヒーに関して色々聞いたけど日本にはあまりパナマコーヒーを取り扱っている会社がないとの事。これはもっと色々お話し聞いて勉強してみたい事だ。とりあえずコーヒーのサンプルを今度頂けると思うので楽しみだ。

急に肌寒くなったきたけどやはり私にとってかき氷を食べないで夏は終われない訳で、、、、。


だけど秋が恋しい。



Wednesday 20 August 2014

盛夏の昼下がり

こう熱いと全てが億劫になる。

夏安居というよりも、ただ怠慢なだけかもしれない。まあ何れにしてもこう火がかんかん照りになっている中で歩くのは些か自殺行為にも思える。

先週の終戦記念日には靖国にいった。思ったより人がいなかったように思う。平日だから仕方がない事かもしれないが、ある種平穏な靖国という感じがして変な安心感を得た。

地下鉄駅から出ると、法輪功の人々が中国共産党を批判するビラを撒いてみたり、またウルグイ差別に関する集会、また新しい教科書を作る会がなにやら署名活動をしたりと、そこらへんは例年と変わらない。

ただ粛々と参拝にきた人々が目立った。大きな声を上げるものもいないし、変な熱気というものも感じられなかった。

私は終戦記念日に靖国にいっても参拝の列には並ばない。何だか心苦しい感じがするからだ。ただ、参拝する人、話に夢中な人、一生懸命一人で何かを考えている人をみているのが好きなのかもしれない。

靖国を後にして、雑司ヶ谷霊園に向かった。お盆期間中にお参りをすませなくてはと思っていたから、丁度よかった。ただ、霊園は駅から最低10分は歩かなければならず、こう熱いと少し億劫に感じられた。

池袋で氷入りの水を用意し、雑司ヶ谷霊園に向かって歩き始めた。そのうちに、風が出てきて幾分楽になったのを感じた。雑司ヶ谷は木々もあるし、適度に木陰がある。また、木に風が当たる音は何ともいえなくいい。こうしたところが私が雑司ヶ谷霊園が好きな理由である。

雑司ヶ谷霊園には多くの人が眠っているが、一番有名なのは夏目漱石だと思う。

今年の夏は朝日新聞で『こころ』が連載されていると聞いた。先週買った文芸春秋の中に、佐藤優が『こころ』の解説をしており、その旨の記載があった。


日本人だったら絶対に読むこの小説を、また読んでみる気になった。
この小説は過去に三回程読んでいるが、小学校、中学、高校とそれぞれ違う感慨を持ったように記憶している。

古本屋で50円でかった『こころ』を読み始めると、以前では感じられなかった多くの事を感じられるようになっている事に驚く。

佐藤優はこの小説には清教徒的な世界観が見て取れるという。「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という言葉がKを自殺に追いやったのは、こうしたピューリタン的な思想を彼が有していたからであり、また先生自身も明治天皇崩御とともに自害する訳だが、彼も言葉によって殺される、とある。

こうして読んでみると、文章のリズム、内容、構成ともに非常に現代的だったのなと感じる。昔は、難解な小説のように思えたが、かなり読みやすく書かれているものであるという事を実感する。

彼の講演集を借りてきた。


これは私にとって非常に影響のある本であり、高校のときに意味を十分に理解していた訳ではないけど深く考えに陥った事を覚えている。

漱石の「自己本位」という言葉が、イギリス留学を終えて日本で様々な事を経験せざるを得ない現在の私に非常なる響きをもって訴えてくる。

「道楽と職業」という講演も意味深いと思った。

細分化する「職業」を持つ現代人が、如何に自我と他を理解して生きていくかを書いているが、私にとって、漱石の素直な人生に対する謙虚さだったり社会に対する理解を感じられるものであり、とても印象深い。

『こころ』の中で、雑司ヶ谷霊園の描写がある。もしかしたら私も漱石と同じ場所を歩いているのではないかという想像は、こう暑い夏を何となく快いものにしてくれる大切なものである。



Tuesday 17 June 2014

映画など、、

昨日は神保町の岩波ホールで「みつばちの大地」という邦題の映画を見た。英語のタイトルだと More than Honeyとなっていた。いろいろな意味で考えさせられる映画だった。



今世界中でColony collapse disorder という現象が養蜂家の中でみられているが、この映画を見るとアグリビジネスがその原因の一因であるある気がしてならない。

いろいろ勉強になると同時に非常に感情的に訴えられる映画だったと思う。養蜂という技術は人間の歴史と深い関係性を持つものであり、大量のミツバチの死骸を見つめる養蜂家らの悲しみが非常なる感情をもって心に迫ってくるものがあった。

友達の影響で養蜂ということに興味を持つに至ったけど、養蜂というのは環境保護やその他世界的事象を広く映し出す鏡のようなものであると感じている。

アメリカなどのmonoculture がこうした蜜蜂の生体に大きな影響を与えていることは確かだ。殺虫剤や農薬など、そして越冬のために与えられる砂糖水の中にも抗生物質が入っていたりと蜜蜂はいまいろいろなストレス要因に囲まれているという感じがする。現代というのは蜜蜂をdomesticationすることによって、農産物の大量生産を可能にしている訳だけど、牛や鶏のようにこうした資本主義的なdomesticationのロジックが養蜂の分野にも適応されることにある種の違和感を感じざるを得ない。しかしながら、アメリカや南米などの国から来る安いナッツ類やフルーツなど、蜜蜂の恩恵を受けているのは私を含めた消費者であることにいささか心苦しさを覚える。理想論だけで生きていけない現実というものがあるということだろう。

そうした安い食料を輸入するということは自然環境に限ったことではないということを、この前読んだガーディアンの記事が教えてくれていると思う。


目を覆いたくなるような映像ばかりで正直びっくりした。現代においてもこうした「奴隷制度」というのは生きているのだと思わざるを得ないし、つらいものがある。こうした告発が実際にこのような現状をかえることが実際できるのだろうか、そこらへんは難しいだろう。こうした社会における利権を巡る争いは恐ろしいまでに社会に制度化され、また人権なんて考えもへったくれもないのだと思う。

さて。


この間読んで面白いと思った記事はグルテンフリーダイエットに関するもので、ここ数年非常なるブームを迎えているそのダイエットの真偽に関する内容だ。私なんかグルテン入ってるものをよく食べるし、それに「グルテンミート」を結構食べているので元々関心のないものであったけどアメリカのダイエットの変遷というのもある意味非常に面白い。低脂肪ダイエット、アトキンスダイエット、ゾーンダイエット、グルテンフリーダイエットなど数年に一回絶対にこうしたダイエットブームがきては新しいものに取ってかわられるのを繰り返している。

しかしながら、このグルテンフリーダイエットというのも非常に信憑性が薄いものだといわざるを得ないでしょうね。実際にグルテンを制限しないといけない病体を持つ人もいるが、それはアメリカの人口の1%以下らしい。最大の問題は、グルテンを控えるということは多くの人が食生活を根本から変えなくてはいけないということで、それが結局今までとれていた栄養素を摂取できないことを意味している。アメリカなんて特に、小麦などを使った食品、ブレッドやクッキー、ケーキなどに満ちあふれているし、まあ確かにそうした炭水化物一般を控えればやせるかもしれない。  

けど、そうしたものをさけてグルテンフリー食材を買うと結構な割合でadded sugarが添加されているという。私はグルテンフリーダイエットはある意味飲料業界や食品業界の陰謀なのではないかと思ってしまっている。実際我々を太らすのはSugarでありその中でもとりわけフラクトースの代謝の仕方が非常に問題であることは明々白々である。その点において、このドクターのレクチャーは非常に勉強になる。

この人の本もちなみに買ってしまった。多分知っている内容だとおもったけど、英語の勉強になると思って、、、、。


今まで糖代謝のことはわかったつもりでいたが、今一度フラクトースとグルコースの代謝の違いを頭に入れてみるとそれはそれで勉強になるし何より役に立つ。

糖といっても色々ある。例えば、、、



すべての糖が悪い訳ではない。一口に炭水化物を減らすといっても、実際減らさなければいけないのは余分な高果糖ブドウ糖とか、脂肪に直結する糖であってすべてではない。

レクチャーの中で、フルーツを食べるのはいいというのも一緒に食物繊維をとることによって代謝のスピードを遅らせたりすることができるからであり、そういった意味で健康のためにジュースを飲むのも実はあまり薦められることではないようだ。

さて、お茶でもいれようかな。




Saturday 24 May 2014

読んだ本 などなど そして「ありのままで」

先日図書館で借りたこの本は、今まで色々疑問に思っていたコーヒーに関する様々な事象を独特の語り口で説明しており非常に面白くまた勉強になった。


この田口護さんという方は「カフェバッハ」という自家焙煎珈琲店のオーナーであり生粋の「珈琲人」であるようで、戦後から現在の「from seed to cup」という世界的な流れをこの本の中で説明している。

なんでも日本で珈琲の焙煎やドリップ方法等が発展したのも、戦後はオールドクルップと言われる古い生豆しか手に入らず、そうした日本がおかれた流通(経済力)の現実が技術力の向上に結びつくきっかけとなったようで面白い。ある意味「酔狂」な人々が珈琲のこうした「淹れ方」を研究した結果日本が現在誇るドリップコーヒーの技術や器具が誕生した、という事らしい。ちなみにこの「ハンドドリップコーヒー」という表現は日本独自の表現であり、英語ではpour over とか言ったりする。何でもドリップという言葉は「肉汁がしたたる」という意味合いを含んでいるようで英語では珈琲に使われる言葉ではないらしい。

エチオピアのコーヒー加工工場でみた方法は主に「washed」と言われるもので、最近は「クリーン」な味を体現する方法として多く採用されているようではあるが、この本を読んでいるとウォッシュド方法は水を大量に使うし、あまりにもクリーン過ぎて豆が持つ個性が失われる傾向も有るという。しかし、高値で取引される事は事実で、こうした加工方法がスペシャルティーコーヒーに付加価値をつける一つの要因であるとも感じる。

筆者も述べていたけど、他の嗜好品、例えば紅茶とかお茶とかに比べると格段に複雑で、焙煎、淹れ方によって多くの違いが出るものがコーヒーである。朝飲む一杯のコーヒーが来た道というのは限りなく「旅」のそれに近いものが有る。

コーヒーの流れはざっとこのようなものらしい。

まずpickerと言われる人々がコーヒーチェリーを採取する。気の利いた組合等はこうした「とるべきチェリーの図」を掲げているが、所詮重さで日銭を稼ぐ人々にとってこうしたチェリーのピッキング指南はあまり意味をなさないのかもしれない。


コーヒーチェリーの運搬はかくも重労働である。

ちなみにこれらの写真は某国を旅行したときのもので、今思えばもっととっておけば良かったと後悔する事しきりである。

このように緑のチェリーも混ざっている。筆者によればこうした未成熟のチェリーが混入する事によって最終的なコーヒーの品質に大きく影響するとの事。

チェリーは美味しそうに見える。しかし、そこまで美味しいものでもなかったな。

果肉をとるために専用の機械に入れられ、

勢い良くまわるモーターによって果肉とコーヒービーンに分けられる。

この時出る果肉は大量であり、面白い匂いを放っていたのを思い出す。あれは発効臭であったような気がする。肥料にしたりするみたいだが、実際のところどうなのだろう。

確かこの後は専用のタンクに入れられ、発酵させるようだ。

見て通り、大量の水がないと成立しないのがこの加工法だ。ちなみに同じ組合で、naturalと呼ばれる天日干しのコーヒーもみた。やはり現実的には、ナチュラルというある意味「エコフレンドリー」な製法が継続されているということだろう。

数多くのタンク。日本人で潔癖の人はこうした「薄汚れた」タンクをみたらコーヒーを忌避するかもしれないと、現地で感じた。

そして発酵が終わったらこのように男力で豆を洗う、というかなんだろうか。重労働だ。


靴も履かないで作業する人々。ここは確かスターバックスも認めかなり有名な組合であるのに、働く人々は皆慎ましい。これを撮っている時、一人の組合員に「食べ物がないから金をくれ」と言われた。これを発見した「上司」が彼を叱責し、彼を端に追いやったのは印象的だ。きっと外国からの「お客様」に対して体裁を整える事で必至だったのだろう。

このあと天日に干して欠点豆を取り除いたり様々な行程を経て流通の経路に乗る訳だけど、ざっとこうして加工一つとっても様々な要素が求められるから、コーヒーというものは大変だ。

ちなみにこのコーヒーは頂き物で、エチオピアSidamo Natural。ここの珈琲店のスタッフが言っていたが、エチオピアの豆はある意味品質にばらつきがあってそこまで高い評価を受けている訳じゃないらしい。コーヒー原産国であり国内産業もこの農産物に頼っているのにこうした中途半端な評価しか受けていない事に悲しみを覚える。

ちなみに私はコーヒーミルを持っていない。



店員さんが目の前で豆を焙煎してくれたが、意外にも早く焙煎が終わるので驚いた。私は初めて聞く「ハゼ」音が非常に心地よく響き感動さえした。私もこうした仕事に携わりたいな。

そういえば、こうしたエチオピアの農産物について調べてるとどうしても行き着くのが「エチオピアコモディティエクスチェンジ」という機関で、某国での旅でもバイヤー達が多くこのECXという単語を口にしていたのを思い出す。

このテッドトークでエチオピアのこの機関が話されていた。これってあまり古くないみたいね。

こういう機関が現実的にどのような利点をもたらすかは相当議論されているところだと思う。

某国にいく前に色々この機関について調べたがネガティブな評価が目立ったような気がする。
色々コーヒー関係の人の論文が出ているみたいで勉強になる。Ethiopian Coffee buying Manualとかも色々ベーシックな知識を得るのに役立った。こういうのもちゃんと発行しているすごいと思う。
この論文も某機関に関する事をかいてあり勉強になる。

こんなのもあったな。

こんなビデオも。

疲れてきたので寝る前に昨日母親と見た英語のおさらいをして、、、、。


ディズニーはやっぱりいいすなー。

Wednesday 14 May 2014

読んだ本あれこれ

忘れないうちに最近読んだり見聞きしたものを書いておこう。

昨年以来アフリカ、エチオピア関係の本は見るようにしているが、この本は友達から勧められた。

このシェフの事は以前からおぼろげながら知っていたが、今回この本を読むにあたって彼の生い立ちや、幼少期からの文化的接触が今日の彼の成功を支えているのだとしる。

かの国に行った時、コーディネーターの人がエチオピア生まれなのだけどスウェーデン育ちだった事を思い出す。この本によれば彼もそうしたエチオピアから孤児としてスウェーデンにおくられた子供の一人であるらしい。実の母親は残念ながら結核により亡くなっているようだが、彼はいつも母親に会える方法を知っているという。それはエチオピアのベルベレというスパイスであり、その匂いを感じ料理する事によって遠い場所にいる母親の事を近くに感じるという。ちなみにベルベレはこんな感じ。



ただ辛いという感じでもなく、色々複雑な味がするから不思議だ。エチオピアでは基本的にこのスパイスミックスが大量に使われて、様々な肉や野菜の煮込み料理が作られているらしい。某国で仕入れてきたベルベレで何回もチキンの煮込みドーロワットを作ったが、結構好評だった。というのも大量にタマネギを使っているから、スパイスの辛みがタマネギで中和される感じで非常に食べやすい。

さて。

先程のシェフであるが、所謂「セレブリティーシェフ」として有名らしい。実際彼がそこまで有名だった事は知らなかったが、何となく調べた感じだと、あまりエチオピア料理と関係がなさそうな気がしなくも無い。

料理と言えば、最近読んだ黒田勝弘氏の「韓国を食べる」にはとても笑わせて頂いた。



韓国に20年以上記者として生活した、著者の韓国の食べ物を中心とした韓国文化、人の観察が非常に興味深く面白かった。

韓国料理と言えば、プルコギ、ビビンパ、焼き肉、最近だとサムギョプサル位しか思い出せない私であったが(もちろんキムチもね。)、この本を読んで韓国の食文化というものを色々な角度で知る事が出来て面白かった。

日本に近い位置に有りながら肉食が好まれる背景としては、モンゴル帝国の影響が大きいのだという。筆者によれば、韓国料理の神髄とは「肉のスープ」であり、焼き肉等は比較的新しく根付いた文化なのだと言う。肉のスープというのは色々骨や身を煮て、そして家族や共同体で食べるものであり、こうした「肉のスープ」の匂いを筆者は語学留学時の下宿生活か如実に感じているようだ。

著者の指摘している韓国人の「精力信仰」というのも面白い。韓国は儒教の国で現世利益的な思考が共有されており、この精力信仰というのもこの現世を精一杯生きる事への現れであるようだ。韓国の「犬食」というのもこの「精力信仰」からくるものであり、多くの人が考えているような日常食では決してない。こうした食文化は往々にして諸外国から文句を言われるというのは決まっているが、ある種日本の捕鯨文化にかんしても同じ事が言え、興味深い。だいたい、ある特定の食文化を否定されるのは人々のナショナリズムを喚起する契機となることを西洋人は知っていた方がいい気がする。食文化に「理性」「理由」を求めるとややこしい事になるのは、もう周知の事実であるのではないだろうか。

私はこの本を読むまでは、黒田勝弘氏の事を誤解していたようだ。産經新聞だし、だいたい「嫌韓」の人だと思っていたが、彼の韓国人の観察、描写にはどことなく優しさ、愛すら感じる。この本を読んでいると、こんな風に面白く、また鋭く文章が書けるようになればなと思う。

食べ物の本でここ数年ずっと読んでいた人と言えば小泉武夫氏のそれであろう。

読んだ本はもう結構あり、思い出せないものもある。例えば、






等等、多数ある。

基本的には発酵学の権威であるため、発酵食品に関する内容が多いが、小泉氏の食に対する愛情、情熱といったものが作中にあふれている。やはり強靭な胃袋を持った「発酵仮面」は尊敬に値するし、文章も日経の夕刊に連載されているもの等は本当に読みやすく、堅い日経新聞のオアシスのような存在だと、購読時はよく感じたものだ。

ただ、一人の作者の本を読み続ける事によって、同じ話に出くわす事が多いのが難点だ。やはり先生のように数多くの著作をもつ人は話がオーバーラップしてしまうのは仕方のない事だろう。私は先生の本を読む度、「ああ、私も先生のように沢山、そして色々な日本の、世界の食にであってみたいなあ」という気持ちを持ってしまう。

やはり食の権威といえば、辻静雄先生の本を外す訳にはいかない。

辻先生はかの有名は辻調を一流の調理学校にした方であり、また日本のフランス料理のレベル、また人々の認識を形成する上でなくてはならない人である。

「舌の世界史」から始まり、






等、今何を読んだか思い出せないものもある。ただ、辻先生の文章は学者のそれに近く、いやむしろ学者でありまたジャーナリストの視点も見せてくれる非常に印象深いものであると感じる。実際、奥様と結婚されるまで新聞記者として活躍されていたという事なので、ジャーナリストである事は間違いがない。それにフランス語の深い知識や、その探究心等は日夜フランス料理、またワインの研究をされたその事実から明らかである。

私は「舌の世界史」が改めて読み返してみると素晴らしいなと感じるし、氏が経験された時代、またレストラン等に思いを巡らせてしまう。氏が、今現在世界で流行っている、例えば「エルブリ」や「ノマ」等の料理を食べたらどのように批評されるだろう。想像してしまう。

食を文学者として面白く描写されているのは池波正太郎先生だと思う。「散歩の時に何か食べたくなって」は有名だが、昨年読んだ


「食卓の情景」はとてもよかった。氏が日常召し上がったものを始め、家庭での事等食卓を巡る「情景」を描いたもので心に強く残る本だったとおもう。氏の幼少期の好んだ食べ物の話や、食と結びついて思いだされる人々の生き様、喜びというものが目の前に浮かぶようで、時に涙を誘う。こうしてみると、氏の時代から色々失われた食文化と言うようなものが有るような気がしてならない。まあ、私は下町の人間ではないから共有出来ない、もしくは想像のできない文化というものも有るのかもしれないが。

つい食に関する本を手に取ってしまう癖は治らないようだ。

今夜は何を食べよう。

Sunday 6 April 2014

春の昼下がりに

会社に辞表を提出すると考えただけで気が重いが、今まで色々考えた結果だから仕方がない。

企業の会計や税務の事を考えるのは非常に勉強になるが、こうした税理士事務所の仕事は基本的に無限のループのようなもので毎月同じ事を繰り返し、決算確定申告と一年に一回訪れる業務で時の流れを感じるようなものだ。非常に安定しているが、正直これが何を運んでくれるのか疑問が有るし、所長の度重なるセクハラ発言、言動に嫌気がさしているのが真実と言ったところだろうか。

桜の季節はもう過ぎ去ってしまったようである。今年は御花見するにはタイミングが悪く強風だったり突然の雷雨に苦しめられる事が多かった。まあお花見と称して友達を呼んで家でお花見もどきをしたが、まあそんなところだろう。

最近は本もまともに読んでいない気がする。それでも読み終えた本と言えば、Ryszard KapuscinskiのShah of Shahsと The Soccer War。これで長く続いたカプスシンスキータイムがだいたい終わった訳だけど、特にこのサッカーウォーは非常に面白かった。


これを読むと今まで色々呼んできた彼の作品の背景がよりリアルに伝わってくる気がした。この本で初めてより詳細な彼のラテンアメリカでの生活、ジャーナリストとしての仕事を知る事が出来る。このタイトルもホンドゥラスとエルサルバドルの戦争でのルポタージュから来たものだが、ほとほと戦争というものはこういうはっきり言ってみれば下らないものから始まるのだと思う。もう色々と内容を思い出せないものも有るが、彼みたいに現地で様々な戦争やクーデターを目の当たりにすると、戦争というものは決して空間を越えて世界に伝わる事がないのだと実感するという。今誰かが前線でその命を失おうという瞬間に、結局誰かそのTVニュースの向こうの世界では何を食べるだとか、シャワーを浴びるだとか、如何に新聞やルポ等で世界の実情が伝えられても決して現実のものとして伝わる事がないという事は本当にだと思う。最近のニュースを見てもスーダンやシリア等の状況を知って理解したいと思っても結局その限界は既に目の前に広がっておりけして当事者意識というものはもてないのではないか、とある意味悲観的にならざるを得ない。カプスシンスキーは「当事者」としてその世界の現状をレポートしたからこそこのジャーナリズムの限界というものを強く感じていたのだと思う。だから彼がこの本の中で描きたかった事は、その事件の物理的な事実ではなくて、その「事実」を作り出した雰囲気、人間、より感覚的な事だったのだと感じる。Another day of Life も同様にそうであったが、彼が如何に出向く先で人間関係を構築したかがわかり、非常に興味深い。私個人的には彼はやはり文学的、詩的な感性をもとに非常なる日常に生きる人々への描写を、ある種本業のジャーナリズムとは別に持っていた興味関心であったと思う。

彼のルポタージュを読む中で感じる事は、彼がその手法をテーマごとによって変えているところが面白いということだ。Shah of Shahsは The Emperorとはまた異なる手法でイラン革命の緊張感あふれる民衆の生活を描いていたと思う。エンペラーの方は確かに、宮廷の人間達のインタビューという形式で全てが書かれていたので、ある種本当に独裁政権が如何に崩壊するかを内側から描いたものであったが、このシャーに関しては、イラン革命がそのシャーを取り巻く外的な力でどのように実行されたかが書かれており、その点が大きな違いであると感じる。

どちらも崩壊する体制を描いているが、読後感としてはエンペラーに非常なる寂しさを感じた。結局イラン等のイスラム教国とは異なり、一度体制が崩壊すると外部の思想、経済力等で多くの国がその舵取りを失敗してきたのだと感じる(特にアフリカ)。皇帝亡き後に訪れるエチオピアの困難を考えると、皇帝時代が一体何を意味していたのかを考えさせられてしまう。ただ、イランも少数派のシーア派としてイスラム圏では迫害されたり多くの困難に直面する事が多かったようだから、一概に色々と言えない事もあるが、、、。

最近買った本は
これはアフリカにおける英国の影響力について主に言及されている本で、多くが各国から集められたレシピで構成されている。植民地支配の中で、イギリス人が本国から持ち込んだイギリスのスパイスや調理法等がアフリカの植民地諸国において多く活用され、また独自の食文化を生んだ事がよくわかる本である。ただ、多少レシピが多いので実際に読み物として読むには少し面白みを欠くかもしれない。

さて

新しい事を始めるのは、やはり春がいいのだと思う。会社を辞める決意をしたのも、自分でやってみたいと思う仕事が出てきたからであり、自分の欠点や長所をよく理解しながら出来る事をやっていきたいと感じている。

元々自然派系の食べ物や製品に興味を持っているが、最近は友達の影響で真剣にそうした世界に身を投じてみたいと思うようになった。この蜂蜜を取り巻く製品、またビジネスというのは単に食用としての蜂蜜に留まらずその副産物等多岐に渡るようだ。蜂蜜を使った化粧品やスキンケア用品は自分で使っているからわかるが、どこかその「自然」な側面を常に感じる事が出来る事が非常に喜ばしい。

友人に送られたこのペーパーは非常に勉強になる。


心地よい昼下がりである。



Wednesday 19 March 2014

備忘録 アゲイン

昨夜は家で一人ワインをあけてしまったせいで、案の定、暴食してしまった。おかげで一日調子が悪かったが、だいぶ気分も良くなった。こうして元気になってくるとまたいっぱい飲む事を考えたり、こりない性格だとつくづく思う。

備忘録的に、読み終わったものの感想を書いておこう。

まず Ryszard Kapuscinski のAnother Day of LIfeを読み終わった。


アンゴラの内戦についてのルポタージュで、今まで全然知らなかったその内戦の実情と言うものを知った。

なんでも著者は一年以上もアンゴラで、ポルトガルからの独立、それに続く内戦への道筋と言うものを終始みていたので本当に描かれている情景が目に浮かぶようで、朝起きると不思議な感覚に襲われた。自分のいるのは何の事はない日常なのだけど、彼の本を読む事によってあらゆる「非日常」を擬似体験する事が出来たのはやはり彼のジャーナリストとしての力量なのだと思う。

著者が作中で述べているが、アンゴラはポルトガルの他の植民地、例えばブラジルと違って、その最悪の影響を受けていたが故に、奴隷貿易による人口減少や貧困などがより顕著であり、そうした背景が内戦の土壌を形成したようだ。他の植民地でのプランテーションに必要な労働力はアンゴラから奴隷船にのって運ばれた人々であり、今でも多く当時の奴隷として運ばれてきたアンゴラ人の子孫が中南米諸国に拡散しているらしい。実際この本を読むまで、アンゴラと他の国例えばホンジュラスなどの関係性を知らなかった。ポルトガルはアンゴラにおいて14世紀以降ずっと「戦争」をしていたとの事であり、それが結局アンゴラ人の労働力の搾取やインフラ建設の土台をなくしてしまった事につながっている、と述べられている。

著者が前線に赴いた時にガイドとしてついてきた女性兵士の話は泣ける。ポルトガル人ジャーナリストクルーと彼は若くて可愛いこの兵士と車で前線に行くまでの時間を過ごす。戦場で見る「美」というものが良く描写されていると思う。たしかmen create the beauty of a womanといった文があった。結局彼女は彼等を前線で見送った直後に敵の攻撃にあって死んでしまう。是を聞いた著者は前線に行きたいと言った自分に罪の意識を感じるが又一方で戦場での命の脆弱性を知る。

彼が冒頭で述べているように、終始彼の個人的な経験が「ひとりでいること」のなかで語られるところにこの本の良さがあると思う。出会う人間との彼との関係性の中で、戦場における人間性と言うものを見る事が出来る。

やっと読み終わったのは是。The Emperor


これは彼の他の作品を読まないと良く理解出来ないものだと思った。

要するになんで彼がこの本で使われている手法をとったのかと言う事が、他の作品を読むとその前提が分かってくるのでこの本の魅力が十分に理解されうる。

エチオピア最後の皇帝が退位するまでの社会の動乱や皇帝自身の生活などを、当時の側近等に語らせる構成でまとめられている。最初は少し緩慢な印象を受けたが、次第に「革命」前夜といったような雰囲気が漂い始める。

是を読むとエチオピア皇帝が排斥され社会主義的な軍やその後に続く政治などは時流からいって必然であったのだと思うが、やはり「象徴」としての皇帝を失ったのは今に続くエチオピアにとって非常にマイナスである気がしてならない。こういったものは一度失われるともう二度と基に戻らないわけで、当時冷戦の流れの中でこうした文化的、精神的な「権威」を失ってしまった事は大きな痛手であると思う。こうして考えて見ると、冷戦の影響は実際アフリカ諸国で色濃く見られる。ベトナムやアフガンなどばかりが語られるが実際に東西冷戦の構図またより長期にわたる影響が見られるのはアフリカ諸国だと感じる。

皇帝最後の日々は非常に寂しいものがある。しかしハイルセラシー皇帝はある意味その皇帝としての威厳や尊厳というものを最後まで失っていないと感じられる。やはり「権力」と「権威」は切り離されるべきなのではないのだろうか。全て彼の手中に納まるわけが最初からなかったのではあるが、現代社会へと突入する世界の中で彼の知っている統治のスタイルが時代に取り残されていく様になんとなく寂寥感を感じてしまう。

とりあえず備忘録までに。

Friday 14 March 2014

読んだ本等

日々春に向かっていると感じる。


スーパーに行けば菜の花やその他春野菜が出てきているし、春を感じずにはいられない。

私自身もうこの冬の寒さにはうんざりしているが、冬しか食べられないたらの白子とか魚卵系が魚屋から姿を消すことを考えただけで、とても寂しい気持ちになる。特に今年は白子のムニエルにはまり、一時期は毎日食べていたのでプリン体の過剰摂取を気にしていた。

バルサミコソースとの相性は抜群。


と言う事で、もうすぐ確定申告業務も終わるし再びこの会計事務所にも平穏な日々が訪れるだろうと思っている。この確定申告の忙しい時期の雰囲気を感じその中で多少まかされる仕事も多数あったので色々と勉強になった。こうしてみると、多くの人が「フリーランス」で生きているのだと実感させられる。給与取得者も良いけど早く個人事業やその現職の仕事から離れた分野で色々とやってみたいと常に感じる。まあ肝心のやるべき事を見つけるのが一番最初だね。

以前読み終わったThe  shadow of the sunの著者Ryszard Kapuscinskiの本を最近立て続けに読んでいる。手に入る限りの彼の作品を注文してしまったので、今は完全に彼の世界観の中にどっぷりつってしまっている。

Travels with Herodotus は彼のジャーナリストとしての原点を見ることが出来る気がして読んで良かったと思う。


ポーランドに生まれて貧困を経験し、また東西冷戦全盛の時に閉鎖的な社会で青春を過ごした彼にとっては、「他者」「他文化」というものへの興味関心が原動力だったのだとわかる。最初にインドに行って始めて他の国、人間と出会いまた言語の違いや文化の違いなど全てが新鮮で刺激的だったようだ。当時まだ英語が得意じゃない中で色々変なことにも出くわしながら、一人でいるときは英語の勉強のために色々と本を読み出すわけだけど、会社の上司がくれたヘロドトスの「歴史」を時間を見つけては読み始める。

要するにこの本は、著者がジャーナリストとして様々なクーデターや内戦をレポートしながら世界各地を旅する自身と、旅をして色々な人間に会い、他文化を経験したヘロドトスを重ね合わせながら対話するという構成で、彼のジャーナリストとしてのスタイルや哲学的なものの基盤になっていると感じる。

彼が所謂途上国で多くの貧困を目にしても、それほどショックを受けたりせず、その中で真実を模索しようと出来たのも、彼の生い立ちが関係していると思う。彼の戦争中靴を買うお金がなくて石鹸を売ってそのお金を捻出しようとしたエピソードがなける。それまで寒い中でも裸足で生活せざるを得なかった自分の幼少の思い出と、アフリカやインドであった裸足の子供たち、人々を重ね合わせているシーンがあって、このような原体験が他者とオープンに対話できた彼の性格を支えていたように感じる。

自分にとって他者とは何物であるのかということがこの著作の中にたくさん出てくる。他者を通して自分と言うものを知る、というのが彼の作品に徹底して見られる特徴であると思う。

The Otherという彼の講演集を読んだ。短いけど是を読むと多くの作品(まだ3冊しか読んでない。。。)の色々なシーンが良く理解できる。


エマニュエル・レビナスの思想哲学が彼の他者への理解、また見方を裏付けているのだと感じる。

西洋にとって他者とは伝統的にEastであり、またそれを知り利益を得ようとしたのが西洋なわけだけど、又同時に他者を知ろうという積極的な態度、知識体系を作ったのも西洋であるから一概に悪いとも言えないのかもしれない。しかしながら、奴隷貿易や植民地支配などやはりほとんど消すことの出来ない影響を残したのは事実であるからなんとも言えない。

著者の立場は私からすると面白い。Westの人間であるのだけどポーランドと言う歴史に翻弄される場所で育った彼からすると、簡単に自己を西側の人間であるというだけのアイデンティティではないのだと思う。だから、アフリカやラテンアメリカ、アジアなどでで彼が他者に出会うことがまた違った意味合いを持っていたのだと感じられる。

人類学の発展はその「他者」への理解がその根幹であるし、彼もそれを語っている。ポーランド人の人類学者の言葉を引用して[to judge, we need to be there]、実際に現場に行って他者の中に交わる事の重要性を指摘している。それは彼の基本的なジャーナリストとしてのスタンスであるし、それがある意味彼の思想哲学の根本であったような気がしてならない。

最近は専らアフリカ強化月間が続いているが色々ともっと読んでいきたいと思っている。

それにしてもつかれた。明日は寝坊するぞ、、、。




Wednesday 19 February 2014

大雪の日々の後は、、、

最近の大雪は本当にすごかった。東京でもあんなに雪が降ると私なんかは嬉しくなってしまうけど、山梨など普段あまり大雪に見舞われない地域の被害は甚大である。友人のニュージーランド人が山梨の白州にすんでいるが、とても車が出せる状況ではないらしい。早く日常に戻ってほしいと思う。

最後の記事が10月あたりだと記憶しているからだいぶご無沙汰になってしまった。色々あったけどなんとなく書く事をわすれていたし、あわただしく過ごしていた。


12月に某アフリカの国に行ってからというもの、アフリカの本を読んだり料理を作ったりして結構楽しんでいる。先日は友人を招いて「パン・アジア、アフリカ料理研究会」のは初部会を開いたが、かなり盛況だった。

作ったものは、アフリカからJollof rice



 Doro wat

 Shiro。某国から密輸したシロパウダーを使って作った。



インドから Papdi Chaat。実際パブディ、チャットニーを全部自分で作ったからマジで時間がかかった。

中東からはTabhle でラテンアメリカからはSadine Ceviceをメニューとした。

意外にも好評で全部なくなった。それも神社神道研究会のメンバーが大体男だって言うのもあるかもしれないけど。

アフリカのレシピは色々参考にさせてもらった。こういう日本にない料理を作るとき本当にインターネットのありがたさを実感する。なんだって調べられる。けど材料が手に入るかは別問題。

アフリカに関してはこの本が参考になった。



まあそこまで色々細かく書いてないけど、エチオピアの料理が他のアフリカ料理と一線を画していると言う事は理解できる。というのもやはり独立を保ちその文化形成に食文化が欠かせなかったが故にエチオピア料理がある意味他の大陸でも市民権を得ていると言うことだと思う。

ちなみに脱線して、



を読んだ。色々おぼろげながらではあるがアフリカのイメージが少しずつ頭の中に構築されていく感じがする。

今は、


を読んでいるが、本当にすばらしいと思う。この本は知人が三年前くらいに読んでいたので気になってはいたが、今色々理解できることもあるしいいタイミングで読んでいると思う。著者は詩も書くほどなので文章は至って詩的、文学的である。彼の本は3冊頼んでいるので楽しみだ!

私の趣味は完全に料理になってしまったようだ。

昨夜はカリフラワーを青果売り場で見つけ購入。自宅に帰ってゴビパコラgobi pakoraを作った。そしてなぜか興が上じてチャナダル(ヒヨコマメカレー)も作ってしまった。


仕事の後にたまねぎを切り刻む快感。もしかしたら是に尽きるのかもしれない。